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[[Image:Paramount Pictures.jpg|thumb|250px|right|パラマウント撮影所]]
[[Image:Cecil-b-demille_paramount-pictures.jpg|thumb|250px|right|パラマウントの
'''スタジオ・システム'''('''Studio system''')とは、1920年代から1950年代初期にかけての、[[米国|アメリカ]]の[[映画]]産業の形態を大まかに定義した用語。米国内で少数の映画会社が寡占的に映画産業を独占していた形態を一般的に指す。
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'''[[スタジオ]]'''('''Studio''')とは、長編映画を製作(時には配給や上映もする)大規模な映画会社を指すために、最も良く使われる。この意味でのスタジオは米国だけでなく、日本を含めた数多くの国に存在する。
しかし、ここの項目で使われる'''スタジオ'''とは、「ビッグ5」と呼ばれた'''[[MGM]]'''(1924年創業)、'''[[パラマウント・ピクチャーズ|パラマウント]]'''(1916年創業、'''PARAMOUNT''')、'''[[20世紀フォックス]]'''(1935年創業、'''20TH CENTURY-FOX''')、'''[[ワーナー・ブラザース]]'''(1923年創業、'''WARNER BROS.''')、'''[[RKO]]'''(1928年創業)の5大メジャー映画会社を指すのが一般的である。これらの映画会社は製作・配給・興業までのあらゆる面でコントロールできたためである。文脈によっては、これらの映画会社より規模の小さい「リトル3」と呼ばれた、'''[[コロンビア]]'''(1924年創業、'''COLUMBIA''')、'''[[ユニバーサル]]'''(1912年創業、'''UNIVERSAL''')、'''[[ユナイテッド・アーティスツ]]'''(1919年創業、'''UNITED ARTIST''')の3社を含めることもある。これらは会社直営の映画館を持たず、完全に製作から公開までの系列化ができていなかったのである([[ユナイテッド・アーティスツ]]は専用の
これらの映画会社の物理的な文字通りの
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1905年頃、米国では映画の上映は、[[ボードビル]]の一環として広場の仮設テントや見せ物小屋などの施設での貧弱で不安定な公開手段から、本格的な[[劇場]]での興業へと形態を変えつつあった。それに伴い1907年頃上映用プリントの配給も中間業者(Film Exchange)が現れ、映画の製作者から興業側へ次第に安定して作品を供給できるようになり、それに伴い映画界はいよいよ隆盛を見せてきた。
1908年米国映画の創始者である[[トーマス・エジソン]]は、自分の発明によって新興業者が儲けているのに業を煮やして、強権的ともいえる映画特許会社MPPC(Motion Picture Patent Company)を発足させる。このトラストの下では、一部の大手業者のみエジソン社製の機材を用いて撮影し(しかも後にはイーストマン・[[コダック]]社製の生フィルムまでも制限された)、配給業者もこのトラストに加わなければ上映もできない、という極めて高圧的な内容である。そのため、このトラストに加われなかった独立系映画製作者は今までの東海岸の撮影拠点から、南の[[フロリダ]]や西海岸へと逃げるようにして活動の拠点を変えていった。西海岸、特に南[[カリフォルニア]]は一年中温暖で晴天が多く、雨はほとんど降らず、また移民人口が多いため労働賃金も非常に安いので、映画製作には絶好の土地であった。こうして、映画のスタジオがこの新天地に次々と開設されていった。また、このトラストは独禁法違反という米国最高裁判所判例が出たため、1915年には崩壊してしまう。
こうして、足枷を外した米国映画界は急激に成長を始め、各映画会社も様々な合従連衡を繰り返しながらも、[[ヨーロッパ]]での[[第一次世界大戦]]の影響も受けず、世界最大の映画製作国として、以後質・量共に君臨することになる。しかもこの熾烈な業界内競争の過程で、1920年代後半の[[トーキー]]革命や1930年代の[[世界大恐慌]]も巧みに乗り越えていき、特に「ビッグ5」は製作・配給・公開のあらゆる面において、'''縦の系列化'''(vertical integration)、すなわちチェーン化が進んだのである。例えば1930年代後半、MGMの製作した[[ミュージカル]]は、一部の例外を除き、MGMの系列映画館しか上映できなかったのである。
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映画製作上の芸術性や創造性のコントロールは、主にスタジオの重役が行っていたが、一握りの監督たち、[[ジョン・フォード]]や[[ハワード・ホークス]]、[[フランク・キャプラ]]、[[ビリー・ワイルダー]]、[[アルフレッド・ヒッチコック]]、[[ジョセフ・フォン・スタインバーグ]]のように、自らの企画に対してある程度の自由は認められていた。しかし、彼らにおいても、スタジオの要求するスタイル、あるいは得意とする[[ジャンル]]という制約の下に活躍していたのであった。ちなみに、ほとんどの監督は他の[[スタッフ]]や[[キャスト]]と同様に、スタジオの厳しい品質管理に応えなければならなかった。
スタジオは、映画の製作だけでなく、自社の映画へ観客を取り込むためにも、ブロック・ブッキング(20本単位で作品を会社の所有している系列映画館だけに公開する手段)のような方法を使って、配給や上映も管理していた。このような複雑で統合された産業は莫大な利益を生むものであったが、その資金もまた高額であった。そのため、資本家や[[ウォール街]]によってスタジオがコントロールされる傾向が大きくなった。たとえば、1930年代の大恐慌時代に[[パラマウント・ピクチャーズ|パラマウント]]は破産へ、合併前のフォックスは財政難に、[[ユニバーサル]]と[[RKO]]は財産管理を強いられていった。しかし、いずれのスタジオも1935年までには内部組織を整理し地道に再建資金を集め、それぞれ復活する。ちなみに1930年代の米国の長者番付の連続第
また、同時に映画の職人らで作られた低予算でのスタジオ(たとえば[[リパブリック]]社や[[モノグラム]]社など)もあったし、[[デヴィッド・O・セルズニック]]や[[サミュエル・ゴールドウィン]]らのような、独立系の大物の映画[[プロデューサー]]も中には存在した]]のである。しかし、1930年代終わり頃には、メジャー・スタジオが毎年75%以上の作品を配給し、各メジャー・スタジオだけでも年間
このシステムは、程度の差はあるが、イギリスやイタリア、ドイツ、日本、インドといった他の国々の映画製作においても、大なり小なり同様の工程が採用されていった。
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==スタジオ・システムの終焉==
[[1948年]]、米国最高裁判所で10年越しのある判決が下った。時間がかかったのは、上訴や[[第二次世界大戦]]を挟んだためである。その判決とは、パラマウントと他の4つのメジャー(つまり「ビッグ5」)に対し、劇場チェーンを映画会社本体から切り離すようにという判決だった("PARAMOUNT decrees"、"divorcement"(分離)、「パラマウント判決」)。これは、スタジオによる製作・配給・上映の所有権は独占的であると裁定し、所有する映画館を売却するようにスタジオ側に命じたのであった。さらに「ビッグ5」と「リトル3」のスタジオはブロック・ブッキングのような、拘束的な配給慣行を停止しなければならなかった。
それと共に、戦後の急激な観客動員数の低下や家庭への[[テレビ]]の台頭は、より一層のスタジオ製作を困難にさせた。もはや[[B級映画]]を製作できる余裕もなくなった。巨大な敷地を持っていた
==関連項目==
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*[[ハリウッド]]
*[[アメリカ映画]]
*[http://en.wikipedia.org/wiki/Studio_system en:Studio system](現在までの各メジャー・スタジオの経営陣の変遷が詳しい)
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