「有村次左衛門」の版間の差分

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[[剣術]]は[[薬丸兼義]]に[[薬丸自顕流]]を学び、後に[[江戸]]で[[北辰一刀流]]を修めた。
 
安政5年([[1858年]])兄の雄助とともに江戸で尊攘活動を行い、のちに脱藩し、[[水戸藩|水戸藩士]]らの志士と交流を深める。安政6年([[1859年]])[[安政の大獄]]が起きるとそれに憤慨し、その実行者である[[大老]][[井伊直弼]]暗殺を水戸藩士らと計画し、翌安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝、[[桃の節句]]祝いに登城する井伊を狙って[[江戸城]][[桜田門]]外で行列を襲撃した([[桜田門外の変]])。自身は行列中央の井伊の駕籠を襲い、路上に引きずり出して殺害し、首級をあげた。井伊の首級を持ち去ろうとしたが、供回りだった[[彦根藩|彦根藩士]][[小河原秀之丞]]に後頭部を斬り付けられて重傷を負い、同行していた[[広岡子之次郎]]が小河原を斬り伏せるも[[若年寄]][[遠藤胤統]]の[[辻番所]]付近で力尽きて自害を図る。有村まず割腹しようと、着用していた皮の稽古胴を外そうとしたが紐を外せず、携帯していた短刀を雪上に立てて伸し掛ろうするも見当をつけられず、周囲の人々に井伊の首級を運ぶよう要請したが、応じる者はいなかったという。その後、水を飲めば早死にできるという割腹の教えに従って、手近な雪を口に含んでいたところを救出され、遠藤邸に運び込まれるが間もなく絶命した。享年22。[[正五位]]を追贈された
 
[[正五位]]を追贈された。
 
== 登場する作品 ==