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== 人物 ==
優勝回数は7度だが、長く上に双葉山が存在して同部屋であるだけに直接対戦が無かったことと、年2-3場所時代の力士である上に、最盛期に戦後の混乱で場所の開催もままならなかった時期のあること、そしてアキレス腱断裂などで随分損をしており、実質的に歴代横綱の中でもA級の強豪として評価する声が少なくない。加えて当時は[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]が無い代わりに同点者は上位優勝という制度があり、これで優勝を逸したこともあった(1941年1月場所)。32連勝は当時双葉山の69連勝と36連勝に次いで昭和以降3位(現在は11位タイ)、敗戦直後の時期に達成した記録であり数字以上の評価がなされている。[[太平洋戦争]]や[[時津風部屋|双葉山道場]]立ち上げの影響により最大70人近くいた所属力士数が一時期20人前後にまで減った[[立浪部屋]]の勢いを[[名寄岩静男|名寄岩]]と共に取り戻した力士でもある<ref name="midorishima">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p10-12</ref>
 
2度の[[アキレス腱断裂]]から奇跡的に復活、豪快な[[横綱土俵入り]]([[不知火型]])で人気だった。土俵入りに関しては掌を前面に向けて押し出しながら掬いあげるようせり上げていることから『重たい岩をも支える腕の形』を表わしているとして、やくみつるは不知火型の(さらに言えばせり上がりそのものの)本質に従った良い見本として評価した。<ref>『相撲』2013年11月号90頁</ref>やくみつるは輪島以降このせり上がりの本質が顕著に失われていったと批判し、白鵬や日馬富士といった不知火型の継承者をその典型例として提示し、「掌を真下に向けている」と指摘した。横綱在位30場所は、[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|2代目梅ヶ谷]]の24場所を凌ぐ当時の最長記録であり、年6場所制以前に引退した横綱としての最長記録でもある<ref>[[1959年]]初場所引退の[[千代の山雅信]]が32場所で記録を更新するが、千代の山は1年だけ年6場所制で横綱に在位している。</ref>。また在位年数12年3ヵ月の記録は未だに破られていない。スピード昇進と長期横綱在位という、二つの記録を持つ稀有な横綱だった。