「羽黒山政司」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
頭蓋骨抉る (会話 | 投稿記録)
頭蓋骨抉る (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
20行目:
|優勝 = 幕内最高優勝7回<br>十両優勝1回<br>幕下優勝1回<br>三段目優勝1回<br>序二段優勝1回<br>序ノ口優勝1回
|賞 =
|初土俵 = [[1934年]]1月場所<ref name="meiretsu22"/>
|入幕 = [[1937年]]5月場所<ref name="meiretsu22"/>
|引退 = [[1953年]]9月場所<ref name="meiretsu22"/>
|引退後 =
|他の活動 =
29行目:
|作成日時 = [[2013年]][[7月5日]]
}}
'''羽黒山 政司'''(はぐろやま まさじ、[[1914年]][[11月18日]] - [[1969年]][[10月14日]])は、[[新潟県]][[西蒲原郡]][[松長村]]大字[[羽黒 (新潟市)|羽黒]](現:新潟県[[新潟市]][[西蒲区]])出身の元[[大相撲]][[力士]]。第36代[[横綱]]。本名は'''小林 正治'''(こばやし まさじ)<ref name="meiretsu22">『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p22</ref>
 
== 来歴 ==
=== 入門~スピード出世で横綱へ ===
[[1914年]][[11月18日]]に[[新潟県]][[西蒲原郡]][[松長村]](現:新潟県[[新潟市]][[西蒲区]])で農家を営む家に三男として生まれる。地元・新潟県の土地相撲で活躍した父親の血を引いたのか、幼少期から大兵だった。当時、新潟では風習で風呂屋の主人を志すことがあり、平成時代に入ってからも東京都内の銭湯の経営者は新潟出身者で占められている。正治少年も[[1929年]]に上京して、伯母が両国で経営していた[[銭湯]]「朝日湯」へ奉公に出て[[三助]]をやっていた<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)20ページから22ページ</ref><ref name="meiretsu">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p19-21</ref>。
 
正治少年が三助として奉公に出てからしばらくしたある日、「銭湯の三助が怪童」との噂を聞きつけた、朝日湯の隣にあった[[錦嶌部屋]]から熱心にスカウトされたが、三助で食べていくために丁寧に断り続けた。しかし今度は正治少年の噂を聞きつけた[[緑嶌友之助|立浪]]から連日のようにスカウトを受けたが、度重なる攻勢に正治少年は次第に心を閉ざし、伯父の経営する[[世田谷区]]の風呂屋へ逃げ込んだ。しかし立浪は、逃げ込んだ世田谷の風呂屋にまで足を運んで正治少年をスカウトし続け、「[[横綱]]になればもっと親孝行が出来るぞ」「相撲取りはいいぞ。全国を見物して歩けるし、出世すれば田畑を買って親を喜ばすこともできる」との言葉に心が動き、ついに[[立浪部屋]]へ入門を決意した<ref name="100retsu"/><ref name="meiretsu"/>。
46行目:
双葉山が現役でいた間、双葉山と1勝差で優勝を逃すこと2度、優勝同点1度、逆に2度の優勝はともに双葉山を1勝差でおさえてのものだった。2度目の優勝の頃からは、「もう(直接戦えば)双葉山より強いのではないか」という声も聞かれるようになった。
 
[[第二次世界大戦]]の敗戦とともに双葉山が引退すると、名実ともに第一人者として戦後の復興真っ只中の相撲界を支えた。[[1945年]]11月場所から4連覇・32連勝を記録したが、その間に立浪の娘だった妻と長男を相次いで亡くす悲劇に見舞われ、その悲しみを乗り越えて全勝優勝を果たした(1946年11月場所)<ref name="100retsu"/><ref name="meiretsu"/><ref name="meiretsu22"/>。
 
[[1948年]]の巡業で右[[アキレス腱]]を断裂、さらに同年7月の巡業で[[横綱土俵入り]]を行った際、[[四股]]を踏んだ途端に同じ箇所を再び断裂してしまった。すでに羽黒山は30代に入っており、その後も後遺症で[[休場]]するなど再起が絶望視された<ref name="100retsu"/>。[[1949年]]5月場所で復帰し、11勝4敗で何とか踏みとどまったが、既に羽黒山のかつての勢いは失われたと思われた。しかし、[[1952年]]1月場所で最後の優勝を全勝で飾り、この時37歳2ヶ月で最高齢での全勝優勝記録となっている<ref>最高齢での幕内最高優勝は[[旭天鵬勝]]の37歳8ヵ月(2012年5月場所、前頭7枚目で12勝3敗)。</ref>。
53行目:
 
=== 引退後~晩年 ===
引退後は[[年寄]]専任となったが、現役時代から後進の育成に熱心で[[若羽黒朋明]]を大関に昇進させたほか、立浪襲名中には[[時津山仁一]]・[[羽黒山礎丞|安念山治]]・[[若浪順]]と若羽黒をそれぞれ幕内優勝者に育てた。時津山・安念山・若羽黒に[[北の洋昇]]を加えた4人は「'''立浪四天王'''」と謳われたほどであるほか、[[吉葉山潤之輔]]を始めとした部屋の内外を問わず若手力士に胸を貸し、成長に貢献した点は特筆される。[[日本相撲協会]]の取締・理事も務めた<ref name="meiretsu22"/>。部屋の師匠としては多くの親方衆を含め、各力士の素質を活かし伸び伸びとその個性を土俵上で発揮させる指導を行い、それが立浪部屋の伝統となった。弟子勧誘については「相撲でいいやつが一人出てどんどん勝つと、やっぱり地方から訪ねてくるもの。『この部屋にはいいのがいるから入門したい』って、地方から手紙が来ますよ。それから(逆に)地方の知っている人にはほうぼう手紙を出しておいて、新弟子を世話してもらったりしてね。そうでなければ、若いもんは増えませんワ」と話していた<ref name="midorishima"/>。
 
[[1969年]][[10月14日]]、[[東京都]][[新宿区]]にある[[慶應義塾大学病院]]にて[[尿毒症]]により没した。{{没年齢|1914|11|18|1969|10|14}}<ref name="meiretsu"/>。立浪部屋は、羽黒山の長女と結婚した安念山が継いだ。
252行目:
| [[吉葉山潤之輔]] || 6 || 1 || [[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]] || 4 || 2 ||||||
|}
 
== 参考文献 ==
* ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』(2017年)
 
== 脚注 ==