「ヤヌシュ・コルチャック」の版間の差分

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1891年からワルシャワのギムナジウムに通う。[[ポーランド分割]]以後ロシア領にあったワルシャワにおいて授業はロシア語で行われた。そこでラテン語、ドイツ語、フランス語、そしてギリシア語を学んでいる。1896年に父親が亡くなり、家計が傾いたため、若きヘンリクは家庭教師で一家の生計を支えなくてはならなかった。
 
1898年から1904年まで[[ワルシャワ大学]]医学部に進ぶ。小児科の専門医と、1904年に学位を取得したのち、ワルシャワの小児科病院に勤務の職を得た(1904-1911(1911まで)。そこで彼の活動は1904・05年、彼が日露戦争に野戦病院の医師として[[日露戦争]]に従軍し、その帰還引き続いて彼が国外で研修(ベルリンで1年、その後パリで半年)で研修を受けたため一時的に中断されたている
 
医学部時代に、執筆活動を開始した。1898年に、ある文芸誌が呼びかけた戯曲コンテストに応募したが、そのとき、ユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキの小説『ヤナシュ・コルチャクと美しい官吏の娘』(1874年刊行。17世紀に裕福な[[メチニク]]の娘に恋をした若き[[シュラフタ]]を描いた物語)の主人公の名前を借用して、ヤナシュ・コルチャク(''Janasz Korczak'' をペンネームとし、その後''Janusz Korczak'' と改めた。
 
こうしてコルチャクは医者を本業としながらも文筆業でもキャリアを積んでいくが、その収入の多くは貧しく親のない子供たちの医療費や支援金に充てられた。 都市の労働者階層の子供たちのために農村でのサマースクールが義捐金によって運営された夏の休暇村が、そこにも無報酬のコルチャックは指導員として何度か同行し無報酬で携わっている。
 
1910年にユダヤ人孤児のための孤児院「ドム・シェロト」(ポーランド語で「孤児たちの家」の意)がPomoc dla Sierot「孤児たちのための支援」Pomoc dla Sierotという団体によって建設され、その翌年にコルチャクはその院長の地位に就いた。そこでは14歳までのユダヤ人孤児が受け入れられ、壁新聞、子ども集会、仲間裁判など教育実践の面でも注目すべき試みが行われた。
 
[[画像:Krochmalna Street orphanage.PNG|thumb|250px|1933年以前のクロフマルナ通りの孤児院ドム・シェロト、1933年以前]]
 
=== 子どもの権利 ===
[[画像:Korczak orphanage.jpg|thumb|right|300px|現在のドム・シェロト、三階の屋根裏部屋がなくなっている。建物正面にあるのはコルチャックの記念碑。裏にはコルチャックの主だった協力者数人の生没年と事績を書いた金色のプレートが貼られている。建物の入り口は階段を上った二階正面。その右手に細長く高いモニュメントがあるのもコルチャック像。二階入って右手にコルチャック研究所がある。]]
[[画像:POL Warsaw JCP korczak9.jpg|right|thumb|200px|ワルシャワのユダヤ人墓地にあるコルチャックと子どもたちの記念碑]]
コルチャックが[[子どもの権利]]の三つの大きな柱として掲げた「子供が「死についての子どもの権利」子供の今日という日についての子どもの権利」子供のあるがままである権利」に込められた、である。子供も大人も、それぞれその人格が尊重されなくてはならないという見解は、今日なおその真価を失っていない。
 
[[第一次世界大戦]]が勃発し期にコルチャック再びロシア軍の混成軍団の従軍医として召集されたためこの時期のドム・シェロトでの活動は中断を余儀なくされた。孤児院の運営は、この時期彼の同僚ステファニア・ヴィルチンスカが引き継いだ。しかし、彼はこの時期も教育学的の重要な活動を続けとしいた。ひとつは、『人はいかに子供を愛するのか』という彼のめての教育学的な著作によりがある。またもう一つは、彼が[[キエフ]]で宿営を構えていた時の駐屯、いくつかの孤児院に医師としてかかわり、った。そこでポーランドの子供たちのための寄宿学校を運営していたマリア・ファルスカと知り合ってい
 
その第一次世界大戦、再び独立したポーランドの首都として機能し始めたワルシャワに帰還。そこでの日常的な生活は、コルチャックの仕事が花開いた時期くこ言っても良いだろうになる
 
ドム・シェロトでの仕事と並んで、コルチャックマリア・ファルスカと共、1928年最初ワルシャワの[[プルシュクフ]]にいたが、1928年からワルシャワ郊外のビェラヌイに移されたナシュ・ドム (ポーランド語で「われらの家」の意)の指導監督引き受けた。これは二年間のみであるが、一種の実験学校であった。地下のまた非合法の大学{{仮リンク|空中大学|en|Flying University}}でも教育学の教鞭をった。
 
1926年からは地域裁判所で教育問題に関する専門家として顧問を務め、1926年から1930年までは、子供新聞「小評論」の編集長も引き受けた。加えて彼は数多くの本も書いている。その中には、元々児童書には頻繁に彼と子供たちの身の回りの事件が登場していたのだが、教育論に関する著作も数多く著しても書かれようになり、自身の経験と理想を書き記した最後に、1935年から36年にはポーランドのラジオ放送のキャスターもなり、本名ではなく「老博士」の愛称で登場てマイクから子供たちと共に、子供たちに向けてのおしゃべりを楽しんだ。
 
=== ホロコースト ===
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== 重要な著作 ==
=== 児童文学 ===
*『街頭の子ども達』''Dzieci ulicy''(Warsaw, (1901)
*''Koszałki Opałki'' (Warsaw, 1905)
*『サロンの子どもたち』''Dziecko salonu'' (Warsaw, 初版1906, 2nd edition 、第二版1927)
*『モシキ、ヨスキとスルーレ』''Mośki, Joski i Srule'' (Warsaw, 1910)
*『ユシキ、ヤシキとフランキ』''Józki, Jaśki i Franki'' (Warsaw, 1911)
*''Sława'' (Warsaw, 1913, corrected 1935 and 1937)
*''Bobo'' (Warsaw, 1914)
*『マチウシ一世』''Król Maciuś Pierwszy'' ( EWarsaw, (1923)
**『子どものための美しい国』[[中村妙子]]訳 晶文社 1988年
**『コルチャック先生のお話 マチウスⅠ世』[[近藤康子]]訳 女子パウロ会 1992
**『マチウシ一世王』[[大井数雄]]訳 影書房 2000年
*『無人島のマチウシ一世』''Król Maciuś na wyspie bezludnej'' (Warsaw,1923)
*『ジャックの破産』''Bankructwo małego Dżeka'' (Warsaw, 1924)
*『もう一度子供になれたら』''Kiedy znów będę mały'' (Warsaw, 1925)
**『もう一度子供になれたら』近藤康子訳 図書出版社 1993年)
*『狂人の議会』''Senat szaleńców, humoreska ponura'' (a screenplay for the Ateneum theatre in Warsaw, 1931) ※戯曲
*『魔法使いのカイトゥシ』''Kajtuś czarodziej'' (Warsaw, 1935)
 
=== 教育学の著作 ===