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[[第一次世界大戦]]期、コルチャックはロシア軍の従軍医として召集されたため、ドム・シェロトの運営は同僚のステファニア・ヴィルチンスカが引き継いだ。駐屯地の[[キエフ]]でいくつかの孤児院に医師としてかかわり、そこでポーランドの子供たちのための寄宿学校を運営していたマリア・ファルスカと知り合う。
 
第一次世界大戦後に新生国家ポーランドの首都となったワルシャワで、帰還後のコルチャックは、最初の教育学的な著作『人はいかに子供を愛するのか』(1919年)を刊行するなど、新たな教育者としての活動にも力開始した注ぐようになる
 
ドム・シェロトでの仕事と並んで平行して、コルチャックは、19281919年にマリア・ファルスカらと共同で孤児院ナシュ・ドム (ポーランド語で「われらの家」の意)を設立した。当初は[[プルシュクフ]]に置れ、1928年以降ワルシャワ郊外のビェラヌイに移されたナシュ・ドム (ポーランド語で「われらの家」の意)の監督も引き受けた。ここに寄宿学校も置かれ、二年間(1932/1933年度と1933/1934年度 )みの実験学校短い期間った、他に教育機関としての機能果たした。またコルチャックは地下組織による非合法の大学でも教鞭を執っている。
 
1926年からは地域裁判所で教育問題に関する専門家として顧問を務め、1926年から1930年までは、子供新聞「小評論」の編集長も引き受けた。児童書や教育論に関する著作も数多く著している。1935年から36年にはポーランドのラジオ放送で子供たちとのおしゃべりを楽しむ「老博士」(Stary Doktor)として登場した。