「ヤヌシュ・コルチャック」の版間の差分

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1910年にユダヤ人孤児のための孤児院「ドム・シェロト」(ポーランド語で「孤児たちの家」の意)が「孤児のための支援」Pomoc dla Sierotという団体によって建設され、その翌年にコルチャックは院長の座に就いた。そこでは14歳までのユダヤ人孤児が受け入れられ、壁新聞、子ども集会、仲間裁判など教育実践の面でも注目すべき試みが行われた。
 
[[画像:Krochmalna Street orphanage.PNG|thumb|250px|1933年以前のクロフマルナ通りの孤児院ドム・シェロト(1935年頃)。]]
 
=== 子どもの権利 ===
[[画像:Korczak orphanage.jpg|thumb|right|300px|現在のドム・シェロト。建物正面にはコルチャックの記念碑。二階右手にコルチャック研究所がある。]]
[[画像:POL Warsaw JCP korczak9.jpg|right|thumb|200px|ワルシャワのユダヤ人墓地にあるコルチャックと子どもたちの記念碑]]
コルチャックが[[子どもの権利]]の三つの大きな柱として掲げたのが「死についての子どもの権利」、「今日という日についての子どもの権利」、「あるがままである権利」である。子供も大人も、それぞれその人格が尊重されなくてはならないという見解は今日なおその真価を失っていない。
 
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ゲットーの劣悪な環境の中でもコルチャックは最後まで執筆への意欲を失わなかった。この時期に書かれた『1942年ワルシャワゲットー日記』には、ゲットーでのつらい日々が、人生の思い出や白昼夢と幻想的に交ざりあいながら記述されており、彼の仕事の集大成ともいえるものである。これはドム・シェロトでコルチャックの助手として働いていた[[イゴール・ネーヴェルリ]]が密かに保管し、1958年にようやく刊行された。
 
[[画像:Yad_Vashem_BW_2.JPG|thumb|イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑([[1978年]]、Boris Saktsier)]]
 
1942年7月から9月にかけてワルシャワゲットーの一掃が行われ、8月6日に孤児院の子どもたちは[[トレブリンカ強制収容所]]に移送されて殺害された。このとき、およそ200人の子供たちは[[集荷場 (ワルシャワ・ゲットー)|集荷場]]までの道のりを、歌を歌い、ドム・シェロトの旗を掲げて行進したという。コルチャックは自分だけが助かることを拒絶して子供たちと共にガス室で殺害された(あるいは銃殺された)。トレブリンカには「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれた記念碑がある。