「テオドシウス1世」の版間の差分

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| 母親 = 大テルマンティア
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'''テオドシウス1世'''(フラウィウス・テオドシウス、'''Flavius Theodosius''', [[347年]][[1月11日]] - [[395年]][[1月17日]])は、古代[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[379年]] - [[395年]])。'''テオドシウス大帝'''とも呼ばれる。わずか1年間4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を統一し、 実質的に一人で支配した最後の皇帝となった。死後にローマ帝国は再び東西に分けられ、永久に統一されることはなかった。
 
[[392年]]に[[キリスト教]]を[[東ローマ帝国]]の[[国教]]に定め、のちに[[西ローマ帝国]]および統一ローマにおいても同じくした。
 
== 生涯 ==
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しかし、[[375年]]に反乱の疑いをかけられ父が処刑されると、テオドシウスは軍を退役し、生まれ故郷のカウカに退いた。彼の引退と父の死の因果関係は不明だが、374年後半にサルマティア族との戦闘中に、自身の率いていた軍団のうちの2個軍団を失ったことが原因で、皇帝[[ウァレンティニアヌス1世]]から解任された、というのが真相であろう。
 
364年から375年にかけてローマ帝国は、西帝ウァレンティニアヌス1世と東帝[[ウァレンス]]という兄弟2人の共同皇帝によって統治されていた。その後、375年にウァレンティアヌス1世が死去すると、息子たち([[ウァレンティニアヌス2世]]と[[グラティアヌス]])が西ローマ帝国の統治者として跡を継いだ。[[378年]]、ウァレンスが[[ハドリアノポリスの戦い]]で死んだあと、グラティアヌスはテオドシウスを東ローマ帝国の共同皇帝に任命した。グラティアヌスが、[[383年]]反乱で死亡、さらにウァレンティアヌス2世が[[392年]]に死亡すると、西ローマ帝国では元老院議員の[[エウゲニウス]]が西の皇帝に擁立された。これに対してテオドシウスはたった一人息子[[ホノリウス]]に西の皇帝を名乗らせるして東394年に西ローマ帝国に軍支配した。そして進め[[394年]][[9月6日]]に起きた[[フリギドゥスの戦い]]で簒奪者[[エウゲニウスらを破って西ローマ帝国の首都[[ミラノ|メディオラーヌム]]を破り占領した。まだ[[ローマ]]では[[元老院 (ローマ)|元老院]]が抵抗を続けていたが唯一の皇テオドシウスはメディオラーヌムに滞在して元老院に圧力を加え、西ホノリウスの後見人なるしてローマ帝国の東西を実質的に単独支配した
 
395年1月、冬営中のミラノで死去した。48歳。
 
テオドシウスは[[コンスタンティヌス1世]]以来、はじめて[[コンスタンティノポリス]]に常住した皇帝である。死に際してテオドシウスは、テオドシウスの下で既に[[アウグストゥス (称号)|正]]名乗らせていた2人の息子に、それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、[[ミラノ|メディオラーヌム]]を首都とする西ローマ帝国とを割し、2人の息子をそれぞれ帝位につけ担統治させた。
 
== 家族・子孫 ==
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383年、グラティアヌスはブリタンニア司令官マクシムスによって殺される。これにより、マクシムスはウァレンティニアヌス2世の統治していたイタリア半島を除いた西ローマ帝国の皇帝となった。幼き皇帝ウァレンティアヌス2世にとってもテオドシウスにとっても、これは大きな脅威であった。[[387年]]、マクシムスがイタリアを攻撃するも、テオドシウスはこれを撃退し、翌年マクシムスを破った。
 
ウァレンティアヌス2世が死去した後、フランク族出身の軍司令官アルボガストによって元老院議員エウゲニウスが西の皇帝に推挙し戴された。簒奪者エウゲニウスはテオドシウスに対抗し、よって弾圧されつつあった古代ローマ教を擁護する政策を採り、[[オリエント]]化が進む東ローマ帝国からの影響に嫌悪感を示していた[[ローマ人]]から支持を受けた。しかしテオドシウスは息子[[ホノリウス]]に西の皇帝を名乗らせると394年フリジドゥスの戦いで簒奪者エウゲニウスがテオドシウスに敗れると、テオドシウスが東らを破って西ローマ帝国唯一首都ミラノを占領し、西ホノリウスの後見人として君臨ローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。
 
== キリスト教の保護者 ==