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== 戦争時の運用 ==
[[ファイル:Lusitania warning.jpg|left|thumb|ルシタニアの広告と並んで掲載された警告文]]
 
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この警告文は、乗客、乗務員に大きな衝撃を与え、58歳の経験豊富な船長ウィリアム”ボーラー・ビル”ターナーは、乗客を落ち着かせるために、ルシタニアがいかに高速であるかを説明し、Uボートに追いつかれて攻撃される心配はないと話した。そして航海初日、ルシタニアは予定より2時間遅れて正午に出港した。出港後、ルシタニアに潜んでいたドイツ人[[スパイ]]3名が船内で逮捕され、客室などから離れた部屋に拘留されていた。
{{wide image|The Lusitania at end of record voyage 1907 LC-USZ62-64956.jpg|1100px500px|<center>ルシタニア出港時の様子</center>}}
 
===乗客===
ルシタニアは最後の航海では1,257人の乗客と702人の乗組員の1,959人を乗せていた。著名人のリストは以下のとおりである。<!--英文記事にある記事で言語間リンクが存在するものにのみ言語間リンクを使用した-->
*[[カナダ]]人ビジネスマン、初代[[準男爵]]フレデリック・オア・ルイス(Frederick Orr Lewis、生還)
*カナダ人[[銀行家]]ハーバート・サミュエル・ホルト([[:en:Herbert Samuel Holt|Herbert Samuel Holt]])の息子で後継ぎであったウィリアム・R・G・ホルト(William R. G. Holt、生還)
*[[モントリオール]]社交界の名士であり[[政治家]]ジョージ・ワシントン・スティーブンス([[:en:George Washington Stephens (senior)|George Washington Stephens]])の妻フランセス・マッキントッシュ・スティーブンス(Frances McIntosh Stephens、死亡)
*[[トロント]]に住む、カナダ[[赤十字]]の創設者ジョージ・スターリング・ライアーソン(George Sterling Ryerson)の妻メアリー・クラウザー・ライアーソン(Mary Crowther Ryerson、死亡)
* ニューヨークの[[エンジニア]]、[[経済学者]]、政治家であるリンドン・W・ベイツ・ジュニア(Lindon W. Bates, Jr.、死亡)
*英国議員デイビッド・アルフレッド・トーマス([[:en:David Alfred Thomas|David Alfred Thomas]]、生還)
*彼の娘で英国の[[婦人参政権]]論者マーガレット・マックワース夫人([[:en:Margaret Mackworth, 2nd Viscountess Rhondda|Margaret, Lady Mackworth]]、生還)
*アメリカ人[[建築家]]であり慈善家のセオダテ・ポープ・リドル([[:en:Theodate Pope Riddle|Theodate Pope Riddle]]、生還)
*[[ハーバード大学]][[哲学]][[教授]]であり米国の[[心霊現象研究協会]](ASPR)<!--米国心霊現象研究協会の記事はまだないがその趣旨をもつ記事が存在する為、そちらへのリンクであることを明らかにするため意図的に「の」を入れた-->の共同創設者であるエドウィン・W・フレンド(Edwin W. Friend、死亡)(後に妊娠5カ月の妻が残された)
*[[オックスフォード大学]]教授で[[作家]]のイアン・ホルボーン(Ian Holbourn、生還)
*H・モンタギュ・アラン([[:en:H. Montagu Allan|H. Montagu Allan]])の妻マーガライト(生還)、娘アンナ(死亡)、娘グウェンドリン(死亡)
*[[俳優|女優]]リタ・ジョリヴィエ([[:en:Rita Jolivet|Rita Jolivet]]、生還)、ジョセフィーン・ブランデル(Josephine Brandell、生還)、アメリア・ハーバート(Amelia Herbert、死亡)
*外科医アントワーヌ・ドパジュ([[:en:Antoine Depage|Antoine Depage]])の妻でベルギー外交官のマリー・ドパジュ(Marie Depage、死亡)<!--File:Marie Depage.jpeg, Page Cinquante パジュ サンカント, ミッシェル・パジュ(Michel Paje) -->
*ニューヨークの[[ファッションデザイナー]]のキャリー・ケネディ(Carrie Kennedy、死亡)と彼女の姉妹キャサリン・ヒクソン(Kathryn Hickson、死亡)
*アメリカ人建築業者で[[ホテル]]経営者のアルバート・ビリック(Albert Bilicke、死亡)
*有名な[[化学者]]であり合衆国化学会社社長のアン・ジャスティス・シャイマ(Anne Justice Shymer、死亡)
*脚本家チャールズ・クライン([[:en:Charles Klein|Charles Klein]]、死亡)
*アメリカ人作家ユストゥス・マイルズ・フォルマン([[:en:Justus Miles Forman|Justus Miles Forman]]、死亡)
*アメリカ人劇場興業主チャールズ・フローマン([[:en:Charles Frohman|Charles Frohman]]、死亡)
*アメリカ人[[哲学者]]、[[作家]]でロイクラフト([[:en:Roycroft|Roycroft]])創設者のエルバート・ハバード([[:en:Elbert Hubbard|Elbert Hubbard]]、死亡)
*その妻で著述家、女権活動家のアリス・ムーア・ハバード([[:en:Alice Moore Hubbard|Alice Moore Hubbard]]、死亡)
*シャンパン関連の実業家であり、慈善家のジョージ・ケスラー(George Kessler、生還)
* アメリカ人[[ピアニスト]]のチャールズ・ナイト(Charles Knight、死亡)とその兄弟イレイン・ナイト(Elaine Knight、死亡)
*<span id="ヒュー・レーン卿">アイルランド人芸術収集家で[[ダブリン]]のヒュー・レーン市立ギャラリー([[:en:Hugh Lane Municipal Gallery|Hugh Lane Municipal Gallery]])の創立者であるヒュー・レーン([[:en:Hugh Lane|Hugh Lane]]、死亡)</span>
*アメリカ人でメキシコ石油固形燃料会社社長アルフレッド・S・ウィザビーの妻ベアトリス・ウィザビー(Beatrice Witherbee、生還)
*その息子アルフレッド・スコット・ウィザビー・ジュニア(Alfred Scott Witherbee, Jr.、死亡)と彼女の母メアリー・カニングス・ブラウン(Mary Cummings Brown、死亡)
*アメリカ人技術者で起業家のフレデリック・シュタルク・ピアソン([[:en:Frederick Stark Pearson|Frederick Stark Pearson]]、死亡)とその妻メイベル(死亡)
* 系図学者ロスロップ・ウィシングトン([[:en:Lothrop Withington|Lothrop Withington]]、死亡)
*スポーツマンで富豪であり[[ヴァンダービルト家]]([[:en:Vanderbilt family|Vanderbilt family]])のひとりである[[アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト]](死亡) – 赤ちゃんを抱いた女性に[[救命胴衣]]をしっかり装着させているところが最後に目撃されている。
* [[舞台美術家]]オリバー・P・バーナード(Oliver P. Bernard、生還)、彼による沈没のスケッチは[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース|イラストレイティド・ロンドン・ニュース]]([[:en:Illustrated London News|Illustrated London News]])において公表されている。
*政治家であり後には[[スペイン]]に対するアメリカ合衆国[[大使]]になった[[ケンタッキー州]][[ルイビル]]のオグデン・ハガティ・ハモンド(Ogden Haggerty Hammond、生還)、と彼の最初の妻で[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のメアリー・ピクトン・スティーヴンズ(Mary Picton Stevens、死亡)はジョン・スティーブンスとロバート・リビングストン・スティーブンス([[:en:Robert L. Stevens|Robert Livingston Stevens]])の子孫である(夫妻はニュージャージー州女性議員ミリセント・フェンウィック([[:en:Millicent Fenwick|Millicent Fenwick]])の両親である)
*前[[アメリカ合衆国内務長官]]ウォルター・L・フィッシャー([[:en:Walter L. Fisher|Walter L. Fisher]])の兄弟のハワードL.フィッシャー博士(Dr. Howard L. Fisher、生還)
*ニューヨークの[[新聞]][[編集者]]、雑誌 ''The Chap Book'' と ''The House Beautiful'' の編集・出版者でメルビル・イライジャ・ストーン(Melville Elijah Stone)の息子であるハーバート・S・ストーン(Herbert S. Stone、死亡)
*英国の[[神学者]]、著述家、[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の聖クレメント教会の牧師であるバジル・W・マチューリン(Rev. Dr. Basil W. Maturin、死亡)
*[[アンドリュー・カーネギー]]の経理担当ビジネスマンでニュージャージー州ウエスト・オレンジ([[:en:West Orange, New Jersey|West Orange]])のロバート・A・フランクスの20歳の姪フィリス・ハッチンソン(Phyllis Hutchinson、死亡)
*アイルランドの[[作曲家]]、[[指揮者]]でペンネーム「T・オブライエン・バトラー」の方が有名なトーマス・ホィットエル・バトラー(Thomas Whitwell Butler、死亡)
*アメリカ合衆国ラバー社([[:en:United States Rubber Company|United States Rubber Company]])社長アーサー・H・アダムス(Arthur H. Adams、死亡)
*[[ブリティッシュコロンビア州]]の実業家、政治家のジェームズ・ダンスミュア([[:en:James Dunsmuir|James Dunsmuir]])の下の息子でトロント在住のカナダ兵士ジェームズ・A・ダンスミュア(James A. Dunsmuir、死亡)
*父の死後、トーマス・B・ジェフリー社代表に就任したチャールズ・T・ジェフリー(Charles T. Jeffery、生還)
*ブース蒸気船会社取締役ポール・クロンプトン(Paul Crompton、死亡)、その妻グラディス(Gladys、死亡)、子供6人(死亡)、子守(死亡)
*ハリー・B・ラセター少将(Major General Harry B. Lassetter)の妻でジョン・M・アンティル少将(Major General John M. Antill)の兄弟のエリザベス・アンティル・ラセター(Elisabeth Antill Lassetter、生還)
*カナダの[[デパート]]創設者ティモシー・イートン([[:en:Timothy Eaton|Timothy Eaton]])の娘ジョセフィン・イートン・バーンサイド(Josephine Eaton Burnside、生還)、と彼女の娘アイリス・バーンサイド(Iris Burnside、死亡)
*[[ニューポート・ニューズ造船所]]社長アルバート・L・ホプキンス(Albert L. Hopkins、死亡)
 
=== 東回り航路 ===
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翌[[5月7日]]金曜日11:00頃、再び海軍から警告が発せられ、ターナー船長は進路を北東に指令した。いっぽうU-20は燃料が減少したこと、[[魚雷]]が3本しか残っていなかったことから、補給の為哨戒を打ち切ることを決定し、U-20は浮上、最高速力で航行していたが、13:00、シュヴィーガー艦長が水平線に船舶を発見したことから、進路を遮る形でU-20は潜行した。
 
 
=== 沈没 ===
===乗客 撃沈 ===
[[ファイル:Torpedoed Lusitania.jpg|thumb|right|雷撃を受けたルシタニア]]
[[ファイル:Doomed Lusitania.jpg|thumb|right|沈没の様子]]
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なお、キュナード社は戦後ドイツから、[[ハンブルク・アメリカ・ライン|ハパグ社]]が保有する当時世界最大級の客船であったインペラトールを賠償として引き渡され、[[ベレンガリア (客船)|ベレンガリア]]として[[1938年]]まで使用した。
 
 
== 最後の生存者 ==
== 沈没時の主な乗客 ==
ルシタニアは最後の航海では1,257人の乗客と702人の乗組員の1,959人を乗せていた。著名人のリストは以下のとおりである。<!--英文記事にある記事で言語間リンクが存在するものにのみ言語間リンクを使用した-->
 
*[[カナダ]]人ビジネスマン、初代[[準男爵]]フレデリック・オア・ルイス(Frederick Orr Lewis、生還)
*カナダ人[[銀行家]]ハーバート・サミュエル・ホルト([[:en:Herbert Samuel Holt|Herbert Samuel Holt]])の息子で後継ぎであったウィリアム・R・G・ホルト(William R. G. Holt、生還)
*[[モントリオール]]社交界の名士であり[[政治家]]ジョージ・ワシントン・スティーブンス([[:en:George Washington Stephens (senior)|George Washington Stephens]])の妻フランセス・マッキントッシュ・スティーブンス(Frances McIntosh Stephens、死亡)
*[[トロント]]に住む、カナダ[[赤十字]]の創設者ジョージ・スターリング・ライアーソン(George Sterling Ryerson)の妻メアリー・クラウザー・ライアーソン(Mary Crowther Ryerson、死亡)
* ニューヨークの[[エンジニア]]、[[経済学者]]、政治家であるリンドン・W・ベイツ・ジュニア(Lindon W. Bates, Jr.、死亡)
*英国議員デイビッド・アルフレッド・トーマス([[:en:David Alfred Thomas|David Alfred Thomas]]、生還)
*彼の娘で英国の[[婦人参政権]]論者マーガレット・マックワース夫人([[:en:Margaret Mackworth, 2nd Viscountess Rhondda|Margaret, Lady Mackworth]]、生還)
*アメリカ人[[建築家]]であり慈善家のセオダテ・ポープ・リドル([[:en:Theodate Pope Riddle|Theodate Pope Riddle]]、生還)
*[[ハーバード大学]][[哲学]][[教授]]であり米国の[[心霊現象研究協会]](ASPR)<!--米国心霊現象研究協会の記事はまだないがその趣旨をもつ記事が存在する為、そちらへのリンクであることを明らかにするため意図的に「の」を入れた-->の共同創設者であるエドウィン・W・フレンド(Edwin W. Friend、死亡)(後に妊娠5カ月の妻が残された)
*[[オックスフォード大学]]教授で[[作家]]のイアン・ホルボーン(Ian Holbourn、生還)
*H・モンタギュ・アラン([[:en:H. Montagu Allan|H. Montagu Allan]])の妻マーガライト(生還)、娘アンナ(死亡)、娘グウェンドリン(死亡)
*[[俳優|女優]]リタ・ジョリヴィエ([[:en:Rita Jolivet|Rita Jolivet]]、生還)、ジョセフィーン・ブランデル(Josephine Brandell、生還)、アメリア・ハーバート(Amelia Herbert、死亡)
*外科医アントワーヌ・ドパジュ([[:en:Antoine Depage|Antoine Depage]])の妻でベルギー外交官のマリー・ドパジュ(Marie Depage、死亡)<!--File:Marie Depage.jpeg, Page Cinquante パジュ サンカント, ミッシェル・パジュ(Michel Paje) -->
*ニューヨークの[[ファッションデザイナー]]のキャリー・ケネディ(Carrie Kennedy、死亡)と彼女の姉妹キャサリン・ヒクソン(Kathryn Hickson、死亡)
*アメリカ人建築業者で[[ホテル]]経営者のアルバート・ビリック(Albert Bilicke、死亡)
*有名な[[化学者]]であり合衆国化学会社社長のアン・ジャスティス・シャイマ(Anne Justice Shymer、死亡)
*脚本家チャールズ・クライン([[:en:Charles Klein|Charles Klein]]、死亡)
*アメリカ人作家ユストゥス・マイルズ・フォルマン([[:en:Justus Miles Forman|Justus Miles Forman]]、死亡)
*アメリカ人劇場興業主チャールズ・フローマン([[:en:Charles Frohman|Charles Frohman]]、死亡)
*アメリカ人[[哲学者]]、[[作家]]でロイクラフト([[:en:Roycroft|Roycroft]])創設者のエルバート・ハバード([[:en:Elbert Hubbard|Elbert Hubbard]]、死亡)
*その妻で著述家、女権活動家のアリス・ムーア・ハバード([[:en:Alice Moore Hubbard|Alice Moore Hubbard]]、死亡)
*シャンパン関連の実業家であり、慈善家のジョージ・ケスラー(George Kessler、生還)
* アメリカ人[[ピアニスト]]のチャールズ・ナイト(Charles Knight、死亡)とその兄弟イレイン・ナイト(Elaine Knight、死亡)
*<span id="ヒュー・レーン卿">アイルランド人芸術収集家で[[ダブリン]]のヒュー・レーン市立ギャラリー([[:en:Hugh Lane Municipal Gallery|Hugh Lane Municipal Gallery]])の創立者であるヒュー・レーン([[:en:Hugh Lane|Hugh Lane]]、死亡)</span>
*アメリカ人でメキシコ石油固形燃料会社社長アルフレッド・S・ウィザビーの妻ベアトリス・ウィザビー(Beatrice Witherbee、生還)
*その息子アルフレッド・スコット・ウィザビー・ジュニア(Alfred Scott Witherbee, Jr.、死亡)と彼女の母メアリー・カニングス・ブラウン(Mary Cummings Brown、死亡)
*アメリカ人技術者で起業家のフレデリック・シュタルク・ピアソン([[:en:Frederick Stark Pearson|Frederick Stark Pearson]]、死亡)とその妻メイベル(死亡)
* 系図学者ロスロップ・ウィシングトン([[:en:Lothrop Withington|Lothrop Withington]]、死亡)
*スポーツマンで富豪であり[[ヴァンダービルト家]]([[:en:Vanderbilt family|Vanderbilt family]])のひとりである[[アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト]](死亡) – 赤ちゃんを抱いた女性に[[救命胴衣]]をしっかり装着させているところが最後に目撃されている。
* [[舞台美術家]]オリバー・P・バーナード(Oliver P. Bernard、生還)、彼による沈没のスケッチは[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース|イラストレイティド・ロンドン・ニュース]]([[:en:Illustrated London News|Illustrated London News]])において公表されている。
*政治家であり後には[[スペイン]]に対するアメリカ合衆国[[大使]]になった[[ケンタッキー州]][[ルイビル]]のオグデン・ハガティ・ハモンド(Ogden Haggerty Hammond、生還)、と彼の最初の妻で[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のメアリー・ピクトン・スティーヴンズ(Mary Picton Stevens、死亡)はジョン・スティーブンスとロバート・リビングストン・スティーブンス([[:en:Robert L. Stevens|Robert Livingston Stevens]])の子孫である(夫妻はニュージャージー州女性議員ミリセント・フェンウィック([[:en:Millicent Fenwick|Millicent Fenwick]])の両親である)
*前[[アメリカ合衆国内務長官]]ウォルター・L・フィッシャー([[:en:Walter L. Fisher|Walter L. Fisher]])の兄弟のハワードL.フィッシャー博士(Dr. Howard L. Fisher、生還)
*ニューヨークの[[新聞]][[編集者]]、雑誌 ''The Chap Book'' と ''The House Beautiful'' の編集・出版者でメルビル・イライジャ・ストーン(Melville Elijah Stone)の息子であるハーバート・S・ストーン(Herbert S. Stone、死亡)
*英国の[[神学者]]、著述家、[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の聖クレメント教会の牧師であるバジル・W・マチューリン(Rev. Dr. Basil W. Maturin、死亡)
*[[アンドリュー・カーネギー]]の経理担当ビジネスマンでニュージャージー州ウエスト・オレンジ([[:en:West Orange, New Jersey|West Orange]])のロバート・A・フランクスの20歳の姪フィリス・ハッチンソン(Phyllis Hutchinson、死亡)
*アイルランドの[[作曲家]]、[[指揮者]]でペンネーム「T・オブライエン・バトラー」の方が有名なトーマス・ホィットエル・バトラー(Thomas Whitwell Butler、死亡)
*アメリカ合衆国ラバー社([[:en:United States Rubber Company|United States Rubber Company]])社長アーサー・H・アダムス(Arthur H. Adams、死亡)
*[[ブリティッシュコロンビア州]]の実業家、政治家のジェームズ・ダンスミュア([[:en:James Dunsmuir|James Dunsmuir]])の下の息子でトロント在住のカナダ兵士ジェームズ・A・ダンスミュア(James A. Dunsmuir、死亡)
*父の死後、トーマス・B・ジェフリー社代表に就任したチャールズ・T・ジェフリー(Charles T. Jeffery、生還)
*ブース蒸気船会社取締役ポール・クロンプトン(Paul Crompton、死亡)、その妻グラディス(Gladys、死亡)、子供6人(死亡)、子守(死亡)
*ハリー・B・ラセター少将(Major General Harry B. Lassetter)の妻でジョン・M・アンティル少将(Major General John M. Antill)の兄弟のエリザベス・アンティル・ラセター(Elisabeth Antill Lassetter、生還)
*カナダの[[デパート]]創設者ティモシー・イートン([[:en:Timothy Eaton|Timothy Eaton]])の娘ジョセフィン・イートン・バーンサイド(Josephine Eaton Burnside、生還)、と彼女の娘アイリス・バーンサイド(Iris Burnside、死亡)
*[[ニューポート・ニューズ造船所]]社長アルバート・L・ホプキンス(Albert L. Hopkins、死亡)
 
=== 最後の生存者 ===
最近まで生きていた生存者は2人いる。[[オードリー・ローソン・ジョンストン]](1915年[[2月]]生まれ)は、ルシタニア沈没の生存者であった。彼は[[イングランド]][[ベッドフォードシャー]]に居住していたが、[[1997年]]に亡くなり、最後の生存者であった[[バーバラ・マクダーモット]]も、[[2008年]][[4月12日]]に死去した<ref>[http://www.genarians.com/1912.html www.genarians.com/1912.html]</ref>。
 
 
== 論争 ==
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[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック・チャンネル]]で放映された番組「ドイツ軍が沈めた客船の謎」(Dark Secrets of the Lusitania)でも、海底に沈む船体の調査に加えて、石炭粉塵やルシタニアへの積み込みが疑われている弾薬原料(粉末アルミニウム、綿火薬)が爆発した場合などの実験とシミュレーションを実施。魚雷による破口から流入した海水が高温のボイラーに触れたことによる水蒸気爆発が、船体の破損状況や生存者による目撃証言と整合するとの見解を示した<ref>{{Cite web|url=http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/972|title=「ドイツ軍が沈めた客船の謎」番組紹介|publisher=ナショナルジオグラフィック・チャンネルホームページ|accessdate=2017-04-21}}</ref>。
 
=== の展開 ===
[[1967年]]ルシタニア号の残骸はリバプール・ロンドン戦争保険協会から元米海軍ダイバーのジョン・ライトに1,000ポンドで売却された。
<!--ここで初出のためグレッグ・ビーミスのファースト・ネームを意図的に付与している。-->グレッグ・ビーミスは[[1968年]]に残骸の共同所有者になり、さらに単一の所有者になるため[[1982年]]までに彼の共同所有者から権利の買い取りを済ませている。引き続いて彼は彼の所有権が法的に隙のないものであることを確実にするため[[1986年]]には英国、[[1995年]]には米国、そして[[1996年]]にはアイルランドの法廷に訴えた<ref>ポール・ロジャーズ(2005年3月/4月) [http://www.stanfordalumni.org/news/magazine/2005/marapr/classnotes/bemis.html "How Deep Is His Love"](彼はとても熱心だ) ''Stanford Magazine''. Stanford Alumni Association.</ref><ref>デイビッド・シャーロック(2007年4月2日)、[http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article1599972.ece "Millionaire diver wins right to explore wreck of the Lusitania."](億万長者のダイバーはルシタニアの残骸を調査する権利を勝ち取った) [[タイムズ]]</ref>。
232 ⟶ 237行目:
アメリカ・ドイツ合作の「ルシタニアの沈没:海の恐怖([[:en:The Sinking of the Lusitania: Terror at Sea|The Sinking of the Lusitania: Terror at Sea]])」は2007年[[5月13日]]にはアメリカの[[ディスカバリーチャンネル]]、2007年5月27日にはイギリスの[[BBC One]]において最初の放送が行われた。
 
=== 英国の爆雷による1950年代の損傷 ===
[[ダブリン]]を拠点とする[[テクニカルダイビング|テクニカル・ダイバー]]のデス・クイグリーは[[1990年代]]ビーミスの許可を得て残骸に対するダイビングを行っていた者であり、残骸は「[[エメンタールチーズ|スイス・チーズ]]のようだ」、また船の周りの海底は「不発の[[ヘッジホッグ (兵器)|ヘッジホッグ]]爆雷が散乱している」と報告している。英国海軍当局は残骸の上で単に「演習」していただけと主張したが、他からは実際は海軍が故意に証拠を隠滅しようとしていたとする意見が示されている。ダブリンの[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]のウィリアム・キングストン教授は「英国海軍と英国政府がルシタニアについてどんなものでも発見されてしまうことを妨げようと長年にわたり相当な手段を取ってきたことに全く疑いはない」と発言している<ref name=sides/>。