「国道48号」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[関山峠]]を越えて東西に通じる道は古くから使われていた。東半分は[[江戸時代]]に[[仙台藩]]領で、仙台藩が江戸時代の初期に仙台からみた「西道」として整備し、[[作並村|作並]]宿・[[熊ヶ根村|熊ヶ根]]宿・[[愛子宿]]宿を置いた<ref>菊池武一「山麓宿場町愛子駅の構造」48頁(1巻324頁)。</ref>。また藩境付近に坂下境目番所、作並宿に作並番所を置いて警備の兵を置いた。通行はあったが、難所の関山峠で運送に馬を用いることができず、運輸では南回りの笹谷街道の方が主であった。
 
[[明治時代]]にこの街道は、関山街道と呼ばれ、そのうち宮城県側が作並街道と呼ばれた。明治時代初めに山形[[県令]]になった[[三島通庸]]は、土木建設を推し進め、関山街道の整備をその重点とした。街道整備の中で最大の事業は、県境を通す[[関山トンネル]]の建設であった。当初は、あまりにも多額の建設費であったため、政府に建設を却下されたが、[[福島市|福島]]に視察にやってきた[[伊藤博文]]に直訴し、現地を視察させた上でようやく工事が許可されることとなった。