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== 略歴 ==
ジャッキー吉川とブルー・コメッツの前身であり母体であるブルー・コメッツは、[[1957年]][[9月]]、[[大橋道二]]、[[ロジェ滋野]]ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した。[[1959年]][[6月]]には、来日した[[ジーン・ヴィンセント]]の地方巡演のツアーバンドに選ばれる程までに音楽性を高めた。[[1959年]][[9月]]、一旦解散するが、彼らのファンだった[[鹿内孝|鹿内タカシ]]によって再興され、[[1960年]][[4月]]に新メンバーで再スタートした。当初は鹿内タカシをメインに[[中尾ミエ]]、[[伊東ゆかり]]、[[園まり]]、[[こまどり姉妹]]、[[尾藤イサオ]]、[[アイ・ジョージ]]ら、多数の歌手のバックバンドとしてコンサートやスタジオ・レコーディングをこなし「日本一の伴奏グループ」を目指していた。フジテレビの「[[ザ・ヒットパレード (テレビ番組) ]]」出演を機に注目を集めるようになり、1965年には[[ザ・ピーナッツ]]のバックで[[第16回NHK紅白歌合戦]]に出演を果たす。
 
[[1961年]]に小田啓義が加入するが1年で「田代久勝とウエスタンキャラバン」に移籍。
 
[[1962年]]に大橋の引退により高橋健二が加入。
 
[[1963年]]からはジャッキー吉川がリーダーになり('''[[ジャッキー吉川]]を参照''')、高橋が脱退し江藤勲に交代。また井上忠夫が加入。
 
[[1964年]]に小田が復帰し、三原綱木も加入。
 
1965年に江藤が脱退し、高橋が復帰したことにより、グループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃った<ref>GSアイ・ラヴ・ユー ニュー・ロック&アフターGSサウンド世代 音楽出版社 32頁。</ref>。
 
地方興行で電車に降り損ねた尾藤イサオの代役を井上忠夫が即席で歌って観客に受けたことからグループ・サウンズとしての活動が始まったとされていたが、小田啓義の証言で「バックバンドとしての紅白出演(1965年)に飽き足らなくなった井上忠夫が、『バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のバンドになれるんだ。』とグループの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家[[すぎやまこういち]])に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。」と詳細な経緯が明らかになっている。本格的なデビューに先駆けてブルー・コメッツはマネージャー[[川村龍夫]]の助言により「[[デューク・エイセス]]」の当時のトップ・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。
 
[[1966年]]に[[日本コロムビア]](レーベルは洋楽部門の[[コロムビア・レコード#商標|CBSコロムビア]]<ref group="注釈">1968年6月30日のシングル「草原の輝き」リリース後に日本コロムビアからCBSレーベルが離脱したため、それ以降の1972年までの作品は「(洋楽レーベルとしての)COLUMBIA」(L盤)の日本ローカル盤からのリリースとなった。</ref>)から発売された(ボーカル入りの楽曲としては)デビュー曲となる英語盤の青い瞳「Blue Eyes」が10万枚、日本語盤の「[[青い瞳]]」が50万枚のヒットになった。日本コロムビアは当時5億円の借金を抱えていたが、ブルー・コメッツの偉業で窮地を脱した。このヒットの頃に[[ザ・ドリフターズ]]や[[内田裕也]]らとともに[[ビートルズ]]の日本公演に前座として出演。その際彼らはビートルズとは別のステージで井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を歌った。ビートルズのメロディーやハーモニーを重視した曲作りは彼らを経て日本独特のグループサウンズへと受け継がれた<REF>朝日新聞学芸部編『戦後芸能史物語』</REF>。その後も「[[青い渚]]」「[[何処へ (曲)|何処へ]]」など順調にヒットを連ねていき、[[1967年]]に発売された「[[ブルー・シャトウ]]」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の[[第9回日本レコード大賞]]で大賞を受賞。名実ともに「日本一のバンド」になった。
 
「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった[[1960年代]]当時、数多のグループ・サウンズの中で[[ザ・ワイルドワンズ]]と共に[[日本放送協会|NHK]]への出演が許され、[[NHK紅白歌合戦]]に[[第17回NHK紅白歌合戦|第17回]](1966年)から3回連続(前年のザ・ピーナッツのバックを含めれば4回連続)で出場した。これは何よりもまず他のグループ・サウンズとは比較にならないほど音楽的水準が高かったことである。全てのメンバーは読譜に優れ、作編曲ができ、卓越した楽器演奏、ヴォーカルやコーラスに至っては声色を巧みに使い分け、ロックから歌謡曲、演歌、クリーンサウンドからガレージパンクまでどのジャンルをやらせても高い完成度で演奏できるバンドだった。(バックバンド外見は短髪で[[背広|スーツ]]姿=[[銀行員]]風言うのが[[世間]]一般に評価されたことによるものでもある。もっとも、メンバーにしての下積時代れば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演経験意図していたもので至極当然はなかった。逆にコンサートなど[[かつら (装身具)|かつら]]を被て長髪を試しところ[[ファン]]に不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキーが髪を伸ばすようになっている)しかし、ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、[[ショーン・コネリー]]が演じる[[ジェームズ・ボンド]]をコンセプトに、全員が移動時にお揃いのアタッシュケースを持っていた(デビュー曲が「サンダーボール」のカバーだったことからもその姿勢が伺える
外見は短髪で[[背広|スーツ]]姿=[[銀行員]]風と言うのが[[世間]]一般に評価されたことによるものでもある。もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどで[[かつら (装身具)|かつら]]を被って長髪を試したところ[[ファン]]に不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキーが髪を伸ばすようになっている)。しかし、ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、[[ショーン・コネリー]]が演じる[[ジェームズ・ボンド]]をコンセプトに、全員が移動時におそろいのアタッシュケースを持っていた(デビュー曲が「サンダーボール」のカバーだったことからもその姿勢が伺える)。
 
[[1967年]][[美空ひばり]]の大ヒット「[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]」で[[バッキング]]を担当。[[1968年]]には[[エド・サリヴァン・ショー]]に出演のため渡米→[http://jp.youtube.com/watch?v=Ms1yoZDbFEc&feature=related]。このときに演奏したのはイントロに琴の音を[[フィーチャリング|フィーチャー]]した、いささか奇妙な「ブルー・シャトウ」で何ともいい難いサウンドに観客の反応は冷ややかだった。すっかり欧米の[[ポピュラーミュージック]]の奧深さに圧倒された[[井上忠夫]]は帰国後すぐにグループの解散を打ち出す姿勢であったが周囲の反対により断念、自らの活動を見直すことによって「脱GS宣言」を出す。同年発売された[[ムード歌謡]]的な傾向が強いシングル「[[さよならのあとで]]」が快心の大ヒット。その後しばらくはムード歌謡路線が続くも、[[1971年]]の「[[雨の賛美歌]]」から原点回帰を見せ、かつての「ブルーサウンド」を進化させた独自のサウンドを展開して良曲を次々と発表、またこの年に発売したカバーアルバム「[[G.S.R.]]」では当時台頭していた[[バート・バカラック]]風のアレンジや、日本における初期の[[プログレッシブ・ロック]]とも言えるような[[AOR]]路線に挑戦するなど精力的な活動を見せる。しかし、「グループサウンズ」として見られ続けたことが足を引っ張る形となり[[1969年]]以降は[[レコード]]の売り上げと人気は急降下、他のGSバンドの解散が続く中でも精力的に活動するが、一度落ちた評価が戻ることはなく[[1972年]][[10月]]にコロムビアと契約を打ち切り、井上・高橋・三原の3人が脱退し、新メンバーが加入、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]から再デビューした(GSとしてのブルー・コメッツの終焉でもあり、GSブームを支えた名立たるグループは既に早期解散していたことから「最後のGS解散」=遅すぎた解散とマスコミに[[揶揄]]された。)。[[1977年]]にもメンバーチェンジし、[[1984年]]には小田も脱退する。時代が平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。その一方でGS時代のメンバーでも[[懐メロ]]番組に出演することが度々あったが、井上が[[2000年]][[5月]]に死去したのを期に、[[2002年]]にGS時代のメンバーでも本格的に再結成した。全国ツアーを展開するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。