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季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、[[嘉暦]]元年([[1326年]])に御内侍所[[工藤貞祐]]が追討に派遣された。貞祐は同年[[7月 (旧暦)|7月]]に季長を捕縛し鎌倉へ帰還したが、季長の[[郎党]]季兼や[[悪党]]が引き続き蜂起し、同2年([[1327年]])には幕府軍として[[宇都宮高貞]]<ref>『[[尊卑分脉]]』(『新訂増補 國史大系 尊卑分脉 第1篇』([[吉川弘文館]]、黒板勝美・国史大系編修会(編)))では[[宇都宮貞綱]]の子([[宇都宮公綱]]の弟)としている。</ref>、[[小田高知]]、[[南部長継]]らが派遣された。翌3年([[1328年]])に至り安藤氏の内紛については和談が成立した。
 
この間、正中2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1325年]][[10月18日]])には子の犬法師<ref>高季(=[[安藤師季|師季]])と見られる</ref>に、[[元徳]]2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1330年]][[6月30日]])には高季あてと二度にわたる譲り状が残っており、その史料(「新渡戸文書」)によると宗季の所領は陸奥[[鼻和郡]]絹家島、尻引郷、片野辺郷、[[蝦夷]]の沙汰、[[糠部郡]]宇曾利郷、中浜御牧、湊、[[津軽地方|津軽]]西浜であった。犬法師にあてた譲り状には西浜が含まれていなかったが、その理由を季長の実効支配下にあったためとする見解がある<ref name=kita/>。
 
なお、[[むつ市]]教育委員会では宗季と季久を別人とし、正中2年に犬法師季久が所領を相続したとしている<ref>「むつ市文化財調査報告書第33集」pp12</ref>。この見解では宗季は季長の別名か安藤氏内部の第三者となるが、「米良文書」によると安藤又太郎宗季、師季、[[安藤法季|法季]]、[[安藤盛季|盛季]]、[[安藤康季|泰季]]を「奥州下國(しものくに)殿之代々」と記録しており、宗季譲り状に見える犬法師は師季の幼名と見る意見が有力である<ref name=kita/>。
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