「1918年米騒動」の版間の差分

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肉や[[魚]]などの摂取が少なかった当時、[[日本人]]の食生活は[[穀物]]類が主体だった。特に肉体[[労働者]]は激務のため1日に1升(1.8リットル)もの米を消費したといい、米価の高騰は[[家計]]を圧迫し、人々の生活を困窮させていた。
 
[[富山県]][[中新川郡]][[東水橋町]](現・富山市)では、[[1918年]](大正7年)「7月上旬」から、「二十五六人」の「女(陸)[[沖仲仕|仲仕]]たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている<ref>[[井本三夫]]『水橋町(富山県)の米騒動』pp.2pp. 2-3([[桂書房]]、2010年)</ref>。
 
[[7月22日]]の昼には、[[富山市]][[中長江町]]ほかで富豪浅田家の施米にもれた細民200名(「杖にすがったむさ苦しい婆さん達もあれば子供の手を曳いた女房連も」)が[[市役所]]に押し掛けた(7月23日『[[北陸政報]]』)。記事には、「昨今の米高が如何に細民をして生活難に陥らしめているが窺われると記している。
 
同日夜間、富山県[[下新川郡]][[魚津町]]の[[魚津港]]には、[[北海道]]への米の輸送を行うため「[[伊吹丸]]」<!--異説あり-->が寄航していたという。この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、[[住民]]らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。荷積みを行っていたのは[[十二銀行]]([[北陸銀行]]の前身)であった。その倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」により記念碑が建立されている。
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== 「米騒動の発生」についての研究経緯 ==
[[井上清 (歴史家)|井上清]]・[[渡部徹]]『米騒動の研究』(全5巻)から45年後の2004年にその間40年以上の間に積み上げられた新た事実・資料・見地を織り込んで、B5版で六百二十三頁にわたる大著として刊行された『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現れている、最も早い時点での行動は、東水橋町の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている<ref>[[歴史教育者協議会]]編・井本三夫監修『図説 米騒動と民主主義の発展』p.98([[民衆社]]、2004年)</ref>。
 
2000年頃までは、米騒動の始まりは、七月二二日夜、富山県下新川郡魚津町の漁民の妻等が、井戸端で、米が高くなるのは同地方の米を県外へ移出するため」であるから、米の積出しを中止してもらおうと相談し、「二三日午前八時すぎ、警察の調べでは四六名が海岸に集まった。
 
これが全国をおおうた米騒動の発端であった」<ref>井上清・渡部徹『米騒動の研究』第1巻、p.72(有斐閣、1959年)</ref>という説が定説になってきた。
 
しかしながら、上述したように、井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』民衆社(2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)等、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。そのため、米騒動がいつどこでどのように始まったのか、については、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族、都市漁民」の前期[[プロレタリア]]である、等と従来の定説を大幅に改めることになっている<ref>梅田欽治「紹介 『図説 米騒動と民主主義の発展』」『[[歴史評論]]』670号、p.105-106,2006年、等。</ref>。
 
更に、米騒動と労働者の[[ストライキ]]との関係についても、「[[労働者階級]]の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」ストライキの参加人員を見ても、「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた<ref>梅田欽治「米騒動論」永原慶二・山口啓二監修『現代歴史学の課題 下』pp.53-54 、(青木書店、1971年)</ref>。
 
また、富山県で[[米騒動]]が始まるより2〜3ヶ月早い「18年の4〜5月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県[[赤穂郡]][[相生町]]にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、[[ラッパ]]を合図に事務所・[[食堂]]・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる<ref>歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』pp.76-77(民衆社、2004年)</ref>。
 
== 背景 ==
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米価の暴騰は一般[[市民]]の生活を苦しめ、[[新聞]]が連日、米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、社会不安を増大させた。[[寺内正毅]][[内閣総理大臣]]は[[1918年]](大正7年)[[5月]]の[[地方長官会議]]にて[[国民]]生活難に関して言及したが、その年の[[予算#予算編成|予算編成]]において、救済事業奨励費はわずか35,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算編成になっているとはいえなかった。
 
このため、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が採られ、<!--それまで5,300人であった-->[[巡査]]を<!--3,000人-->増員するという措置が採られた<ref>[http://www.rakutai.jp/etc/yamashiro/file/124.html 洛南タイムス連載シリーズ『南山城の光芒』]</ref>。
 
労働者の[[労働基本権#日本における労働基本権|団結権]]すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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*『劇画民衆史 米騒動』-作画大谷薫 解説井上清([[1981年]]、而立書房)
*『筑豊米騒動記』-林えいだい([[1986年]]、亜紀書房)
*『北前の記憶 北洋・移民・米騒動との関係』- 井本三夫([[1998年]]桂書房)
*『聞き書き社会史 北九州の米騒動』 - 林えいだい([[2001年]]、ISBN 4-7512-0816-0)
*『大正デモクラシーと米騒動』 - 仲村哲郎([[2002年]]、ISBN 978-4-89757-646-6)