「若槻禮次郎」の版間の差分

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Youyiwei (会話 | 投稿記録)
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== 人物像 ==
*若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して[[熱燗]]を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」<ref>「若槻氏の癖」『中央公論』第四二巻第二号、昭和二年</ref>と書いている。
* [[1926年]]2月14日に若槻は[[西園寺公望]]を訪問したが、面会後の西園寺の感想について松本剛吉の記録によると、「彼の男は桂の次官をした男故、妥協で議会を切り抜ける位は上手だろうが、後は言わぬ方が宜しいだろうと言われたり」、松本は西園寺の話は若槻が首相の器に非ずと解釈した。<ref>『大正デモクラシー期の政治―[[松本剛吉]]政治日誌』(岩波書店、1959年),p.480。</ref>
* 息子の[[若槻有格|有格]]は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了(しま)ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子(ようす)になるのです」と語っている<ref>「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第三巻第十二号、昭和四年</ref>。
*[[ロンドン海軍軍縮会議]]の首席全権になった際、「[[骸骨]]が[[大砲]]を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。