「サツマイモ」の版間の差分

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== 日本列島における栽培史 ==
[[ファイル:Nihonkansyosaibaisyotinohi.jpg|thumb|[[種子島]][[西之表市]]に建つ「日本甘藷栽培初地之碑」]]
*サツマイモが[[フィリピン]]から中国に伝来したのが[[1594年]]である。同年、[[宮古島]]の村役人、長真氏旨屋(砂川親雲上旨屋)が[[首里城|首里王府]]への帰途に逆風で中国に漂着し、[[1597年]]に中国を出発したが今度は[[九州]]に流れ着き、それからようやく帰島した。この時に宮古島へ苗を持ち帰ったのが日本最初の伝来となる。旨屋は栽培の普及に努め、島では主食となるほどに広まった。死後はンーヌ主(芋の神様)として[[御嶽 (沖縄)|御獄]]に祀られている。ただし伝承の考察から、実際には[[1618年]]ではないかという推測もある。宮古島から[[沖縄本島]]へは伝播しなかった。沖縄では[[1612年]]の[[与那国島]]、[[1694年]]の[[石垣島]]など、それぞれの島ごとに中国から、本島とは関係なくばらばらに伝来し、その島内では急速に普及が図られるものの、他の島へ伝えるのは消極的だった。2013年現在、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神が祭られている。<ref>[http://www.miyakomainichi.com/2013/10/55479/]宮古毎日新聞、先人の歩みに思い馳せる/郷土史研究会</ref>
*2013年現在、宮古島の大座御嶽にて甘藷(イモ)の神を祭っている。<ref>[http://www.miyakomainichi.com/2013/10/55479/]宮古毎日新聞、先人の歩みに思い馳せる/郷土史研究会</ref>
* [[1604年]]、当時の[[琉球王国]](現在の[[沖縄県]])[[沖縄本島]]に伝わる。[[明]]への進貢船の事務職長(総管)であった[[野國総管]](与那覇 松)という人物が明(今日の[[中国]][[福建省]]付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして[[北谷町|北谷]][[間切]]野国村(現在の[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]])に持ち帰り、儀間村の地頭・[[儀間真常]]が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。種子島や本土に伝来したのはこちらの系統である。
* [[1698年]]([[元禄]]11年)3月、[[種子島]]に伝わる。領主[[種子島久基]]([[種子島氏]]第19代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、[[琉球]]の[[尚貞王]]より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。[[西之表市]]下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ<ref name="徳永 p.27">徳永 p.27</ref>。
* [[1705年]]([[1709年]]とするものもあり)、薩摩[[山川町 (鹿児島県)|山川]]の[[前田利右衛門]]は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった。前田利右衛門を祀る[[徳光神社]]には「さつまいも発祥の地」とする碑が建てられている。
* [[1711年]]、薩摩を訪れた[[下見吉十郎]]が薩摩藩領内からの持ち出し禁止とされていたサツマイモを持ち出し、故郷の[[伊予国]][[瀬戸内海]]の[[大三島]]での栽培を開始した。
* [[1715年]]([[正徳]]5年)、[[対馬]]の[[郷士]]の原田三郎右衛門が、薩摩国からサツマイモの種イモを持ち帰った。対馬国の地は全島の9割近くが山地であり、耕作面積が非常に狭いため、武士階級でも山野の食物を採集して食べていたほど食糧生産事情が悪かったが、サツマイモの普及によりこれが解消した。現地では「孝行イモ」とも呼ばれる。また、サツマイモを非常に手間をかけて加工し、「[[せん (食品)|せん]]」と呼ばれる保存食を製造していた。この「せん」から対馬独特の団子や[[ちまき]]、さらに「[[六兵衛|ろくべえ]]」と呼ばれる麺を作る。
* [[1732年]]、[[享保の大飢饉]]により瀬戸内海を中心に西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥った。伊予国大三島の周辺では餓死者がまったく出ず、これによりサツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。
: また、[[石見銀山]]では代官であった[[井戸正明]]が年貢の減免、年貢米の放出、官金や私財の投入などを行う一方、大森地区(島根県大田市)の栄泉寺で、薩摩国の僧である泰永から甘藷が救荒作物として適しているという話を聞き、種芋を移入。その年に種付けを試みたが、種付けの時期が遅かったことなどもあって期待通りの成果は得られなかった。しかしながら、邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛が収穫に成功。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり、多くの領民を救った。この功績により、井戸正明は領民たちから「芋代官」あるいは「芋殿様」と称えられ、今日まで顕彰されるに至っている。