「センティヌムの戦い」の版間の差分

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| combatant1 = [[共和政ローマ]]
| combatant2 = [[サムニウム]]、<br>[[ガリア人]]、<br>[[エトルリア]]
| commander1 = [[プブリウス・デキウス・ムス2世 (紀元前312年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]†、<br>[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]
| commander2 = エグナティウス†
| strength1 = 40,000
| casualties2 = 戦死25,000、<br>捕虜13,000
}}
'''センティヌムの戦い'''(センティヌムのたたかい)は、[[紀元前295年]]にセンティヌム(現在の[[サッソフェッラート]]近く)で発生した、[[サムニウム戦争#第3次サムニウム戦争|第三次サムニウム戦争]]における決定的な戦いである。[[共和政ローマ]]が、強力な[[サムニウム]]、[[エトルリア]]、ウンブリア、[[ガリア]](セノネス族)連合軍に勝利した。この戦いにローマが勝利したことで、第三次サムニウム戦争そのものの勝利への道が開けた。[[ローマ軍]]の指揮官は二人の[[コンスル]](執政官)、[[プブリウス・デキウス・ムス2世 (紀元前312年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]と[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス]]であった。
 
== 背景 ==
両軍はサムニウムの平原で出会ったが、二日間戦闘は開始されなかった。しかし、兵士の戦意を抑えきれなくなり、ローマ軍の方から攻撃を開始した。サムニウム・ガリア連合軍の右翼をガリア兵が守り、左翼をサムニウム兵が守っていた。ローマ側では、クイントゥス・ファビウスが右翼、プブリウス・デキウスが左翼を担当した。
 
クイントゥス・ファビウスは敵軍の継戦能力を試すために防御戦闘を行って戦闘を長引かせ、連合軍の戦闘意思が衰えるのを待った。プブリウス・デキウスはより積極的に戦い、騎兵に攻撃を命じ、サムニウムの騎兵を二度にわたって後退させた。二度目の攻撃では敵の歩兵部隊に迫ったが、連合軍の[[チャリオット|戦車]]攻撃で撃退されてしまった。この戦車部隊はデキウスの歩兵の戦列も崩し、サムニウム軍歩兵が攻撃を開始した。プブリウス・デキウスは自身が「生贄となる」ことを決心した。すなわち、軍が危機に瀕していたときに、神に祈り、自身を犠牲にすることで自軍を敵に向かわせた。彼の父[[プブリウス・デキウス・ムス1世 (紀元前340年の執政官)|プブリウス・デキウス・ムス]]も[[紀元前340年]]のヴェスヴィウスの戦いで同じ行為を行っていた。
 
この行為はローマ軍の士気を上げ、またクイントゥス・ファビウスが支援要請をしていた予備2個軍団も到着した。ローマ軍右翼では、ファビウスが騎兵に対してサムニウム軍左翼を迂回して側面を攻撃するように命じ、また歩兵に対しては前進を命じた。続いて予備兵力にも攻撃を命じた。ついにサムニウム兵はガリア兵の戦列を越えて逃走した。ガリア兵は各兵士が密集して楯で全面・側面および上部を防御する亀甲陣形を敷いた。クイントゥス・ファビウスは500人のカンパニア槍兵に対し、背後からの攻撃を命じた。また軍団歩兵も中央部に圧力をかけ、騎兵も攻撃に加わった。その間にクイントゥス・ファビウスはサムニウム軍野営地を急襲し、後部との連絡を断ち切った。結局はガリア軍も敗北した。リウィウスによるとローマ軍の損害は8,700、サムニウム・ガリア連合軍の損害は20,000であった<ref>[[リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』10.28-29</ref>。