「フォンテーヌブローの勅令」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2011年9月}}
'''フォンテーヌブローの勅令'''(フォンテーヌブローのちょくれい、{{lang-fr|Édit de Fontainebleau}})は、 [[1685年]][[10月18日]]に[[フランス王国|フランス国王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]により署名された、[[ナントの勅令]]を破棄する法令である。あら直接のきっけは[[大トルコ戦争]]のた1663年から1683、1684年に[[神聖ローマ帝国]]と[[レーゲンスブルク]]で12年間の休戦を妥決したことである。あらけて、じめ[[竜騎兵]]により[[ユグノー|ユグノー教徒]]は拷問にかけられ、[[カトリック]]へ改宗させられた。ジャン・アンリ・ユグタン([[:de:Jean Henri Huguetan Graf von Gyldensteen|ジャン・アンリ・ユグタンJean Henri Huguetan]]のように、[[アムステルダム]]へ逃れた多くの中産ユグノーが出版・金融業で栄えた。ユグノー系の銀行家には国内にとどまったものもあり、1694年と1709年の大飢饉に遭難したルイ14世は彼らを頼った。彼らの家族は先のアムステルダムだけでなく、[[ロンドン]]・[[ハンブルク]]・[[ダンチヒ]]に亡命していたので、そこから原資を募ることができた。この勅令は[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]時代の[[1787年]][[11月7日]]になって、[[ヴェルサイユ勅令]]の署名により破棄された。
[[File:Édit de Fontainebleau. Page 1 - Archives Nationales - AE-II-887.jpg|thumb|フォンテーヌブローの勅令]]
'''フォンテーヌブローの勅令'''(フォンテーヌブローのちょくれい、{{lang-fr|Édit de Fontainebleau}})は、 [[1685年]][[10月18日]]に[[フランス王国|フランス国王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]により署名された、[[ナントの勅令]]を破棄する法令である。あらかじめ1663年から1683年にかけて、[[竜騎兵]]により[[ユグノー|ユグノー教徒]]は拷問にかけられ、[[カトリック]]へ改宗させられた。[[:de:Jean Henri Huguetan Graf von Gyldensteen|ジャン・アンリ・ユグタン]]のように、[[アムステルダム]]へ逃れた多くの中産ユグノーが出版・金融業で栄えた。ユグノー系の銀行家には国内にとどまったものもあり、1694年と1709年の大飢饉に遭難したルイ14世は彼らを頼った。彼らの家族は先のアムステルダムだけでなく、[[ロンドン]]・[[ハンブルク]]・[[ダンチヒ]]に亡命していたので、そこから原資を募ることができた。
 
<!--(要約するか、ユグノーの項目に譲るべき。)== ナントの勅令廃止の発端 ==
=== アレスの講和からルイ14世親政時代まで ===
[[1629年]]の[[アレスの講和]]では、ナントの勅令によってユグノー教徒らに与えられていた特権が、特に軍事的条項に関して、大幅に削減された。その後、ユグノー教徒、すなわち当時のカトリック教会が呼んだところの「偽改革派(RPR:Religion Prétendue Réformée)」は若干の権利の削減以上にはあまり大きな打撃を受けずに30年間ほど暮らしてはいたが、彼らが特権を完全に失わなかったのは恒常的な法的闘争のおかげでもあった。
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教皇からの制裁は早かった。イノケンティウス11世は、フランス王の指名した司教の公認を拒否したのである。王は屈服せざるを得なかった。司教は各司教区と中央権力を結ぶ存在であり、従って司教の不在は司教区のヒエラルキー維持と王命伝達に支障をきたしたからである。この問題は10年後の[[1692年]]にようやく解決をみた。イノケンティウス11世の後継者[[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]]はフランス王との緊張関係の改善に努め、1682年の聖職者会合の参加者が公的に謝罪し、ルイ14世も四か条宣言をこれ以上持ち出さないことを命じた。そしてこの間、ドラゴナードの成功により新教徒のカトリック改宗も大きく進展していた。
 
ナントの勅令破棄は、教皇との関係改善、王の世俗特権の教皇への返上、そしてドラゴナード成功後の対応に不可欠であったと言えよう。-->
== 内容 ==
 
== フォンテーヌブローの勅令―その内容 ==
破棄の勅令の序文において、ナントの勅令は次のように記載されている。
{{Cquote|
偉大なる王アンリ、輝かしい名声をもつ我々の祖は、国内外の戦争による多くの損失を経てその臣下にもたらした平和がRPRによって乱されることを防ぐために、歴代の王の支配を継承するにあたり、1598年4月にナントにおいて発せられた勅令により、前述の宗派に属する人民へ配慮を与え、彼の人々が礼拝を行うことができる場を決定し、彼らのための特別法廷を設け、王国の安寧を維持するために、また異なる宗派に属する人々の間の対立を減少させるために必要と判断されればいかなる特別法令でも与え、いとも容易に遠ざかりがちな人々を〔カトリック〕教会へ統一せんがための努力を惜しまなかった。
}}
<!--すなわち、ナントの勅令は、宗教戦争を脱するための和平的な政治的妥協策であったとされたのである。この条文に従えば、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の目的は王国の宗教的統一を達成することにあり、この方針は1598年以来一貫していたことになる。ただし、王は[[1610年]]の死去によりその実現をかなえることが出来なかった。そしてその後連続した国内外の紛争により、彼の後継者たちもまた勅令を破棄する機会を得なかった。フォンテーヌブローの勅令の条文は、フランスに平和が訪れ、過去数年の間に多くの人々がカトリックへ改宗した今こそ、王は王国に平和をもたらすためにナントの勅令を破棄することが可能となり、破棄しなければならないのであると述べている。-->
 
[[File:Édit de Fontainebleau. Page 1 - Archives Nationales - AE-II-887.jpg|thumb|フォンテーヌブローの勅令]]
主要な条文の内容は以下のとおりである。
*第1条 ナントの勅令および議会により承認を受けた際の修正条項を破棄する。あらゆる(新教)教会の解体を命ずる。
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*第4条・第5条 牧師には改宗か国外追放の選択肢を与える。
*第10条 改宗していないプロテスタントに対しては国外脱出を禁じ、違反すれば男性の場合は漕役刑、女性の場合は全財産没収の上禁固刑に処する。ただし、すでに他国に移住したプロテスタントについては、王国への帰還、および職業と財産の復帰を認める。
*第12条は勅令の最後の条だが、次のように両義的な内容となっている。{{Cquote|これに加えて、前述のRPRの人々に対しては、神が他の人々同様に彼らも照らすことを望まれることに鑑みて、我々の王国内および我々の支配下にある地にとどまり、商業を続け、RPRであることを理由に妨害や干渉されることなく利益を享受し続けられることを認めるが、これは、前述のとおり、信仰の実践を一切行わず、前述の宗派の礼拝や祭礼のための集会をいかなる形式においても行わない限りにおいてであり、違反の場合は(中略)全財産没収とする。}}{{Clear}}
 
<!--最後の条項は多くの歴史家がその解釈をめぐって議論してきたものである。ここでは新教徒に対して宗教上の実践を行うために集会しないことを条件に王国内にとどまることを認めている。この条項は、先行する各条項に規定されたさまざまな制限的内容と、1680年代以降とられてきたさまざまな政策と根本的に対立している。E. ラブルースによれば、彼女が「詐欺的」と判断するこの条項は、勅令破棄に対して激怒するであろう[[イギリス]]、[[オランダ]]、スウェーデンなどのプロテスタント諸国の反発を和らげるための手段であったと考えられる。B. ウルス(Hours)によれば、本条項は1682年の四か条宣言との関連から考察する必要があり、ルイ14世は、信仰の実践に関連する立法を行う権利を持つ世俗権力と、恒久的なカトリック信仰を保障し、教会に属する教皇権力との境界をはっきりとさせようとしたのであろうというものである。
 
しかしながら、破棄の勅令は外交政策に対して部分的にしか積極的効果をもたらさなかった。イノケンティウス11世は1685年[[11月16日]]の教皇小勅書によって王に形ばかりの祝福を述べ、[[1686年]][[4月30日]]には教皇によってテ・デウムが捧げられたが、ローマ教皇庁とヴェルサイユの間の緊張はその後も緩むことはなかった。フランスの宮廷は教皇が国王の王国内における支配権の行使を認めることを期待していたが、教皇は書簡により王への褒賞は教皇庁よりも神の御心次第であると述べたのであった。カトリック君主たちは慣例どおり祝辞を送ってきたが、対フランス政策は変更しなかったし、プロテスタントの同盟国とは気まずくなり、それ以外のプロテスタント諸国、特に[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]はフランスへの攻撃を検討するに至った。このことが後のフランスのヘゲモニーに影響を与えることにも繋がるのである。
 
もちろん、フランス国内のカトリック信者は、熱狂的信心家にとどまらず、王の決定を賞賛した。ルイ14世を讃える賛辞が巻き起こり、[[セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル|セヴィニエ侯爵夫人]]は「いまだかつて、そしていまより後もいかなる王もこれほどすばらしいことはできないでしょう」と述べ、ボシュエはルイ14世を王国の宗教的統一を成し遂げた「[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]の再来」と呼んだのであった。-->
== その影響 ==
 
しかし、そうした賞賛の声の裏で、まだ残っていた多くの新教徒がフランスを脱出して国外、特にドイツへ移住した。中でも「[[ポツダム勅令]]」を出して彼らを保護した[[ブランデンブルク=プロイセン|ブランデンブルク選帝侯国]](後の[[プロイセン王国]])へは数万人が移住し、「[[ポツダム勅令]]」で保護された。18世紀初頭には[[ベルリン]]の人口のうち3分の1はフランス人だったとはよく言われることである。現在彼らは農業と工業の両面技術革新をたらした。養蚕の成功は特筆される。同胞がオランダにもいて、近現代にドイツ経済はオランダのそれと密接に関係した。現代ドイツにはユグノーの末裔が住をたくさ挙げることが<ref>例えば[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]最後の[[ドイツの首相|閣僚評議会議長(首相)]]だった[[ロタール・デメジエール]]とその従弟で[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]後に閣僚を務める[[トーマス・デメジエール]]、[[第二次世界大戦]]における[[ドイツ空軍]][[エースパイロット]]の[[ハンス・ヨアヒム・マルセイユ]]や[[アドルフ・ガーランド]]など</ref>。フランスにとっては勤勉な新教徒が失われたことによる経済的損失は大きかった<ref>プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]によれば、「数州の地方はこのために著しく人口が減少し、今日にいたるまで人々は、ナントの勅令の廃止を後悔している」。新教徒を受け入れた側の誇張もあるだろうが、フランスの産業と資本の蓄積が遅れた一因とは言えるだろう。</ref>。また、ユグノーが多かったフランスの[[時計師]]たちの多くが[[スイス]]へ移住したことで、フランス時計産業が衰退してスイス時計産業が発展する契機となった
== その影響 ==
しかし、そうした賞賛の声の裏で、まだ残っていた多くの新教徒がフランスを脱出して国外、特にドイツへ移住した。中でも「[[ポツダム勅令]]」を出して彼らを保護した[[ブランデンブルク=プロイセン|ブランデンブルク選帝侯国]](後の[[プロイセン王国]])へは数万人が移住し、18世紀初頭には[[ベルリン]]の人口のうち3分の1はフランス人だったとはよく言われることである。現在でもドイツにはユグノーの末裔が住んでいる(例えば[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]最後の[[ドイツの首相|閣僚評議会議長(首相)]]だった[[ロタール・デメジエール]]とその従弟で[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]後に閣僚を務める[[トーマス・デメジエール]]、[[第二次世界大戦]]における[[ドイツ空軍]][[エースパイロット]]の[[ハンス・ヨアヒム・マルセイユ]]や[[アドルフ・ガーランド]]など)。
 
また、宗教的熱狂が冷めてみると、勤勉な新教徒が失われたことによる経済的損失は大きかった。プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]によれば、「数州の地方はこのために著しく人口が減少し、今日にいたるまで人々は、ナントの勅令の廃止を後悔している」。新教徒を受け入れた側の誇張もあるだろうが、フランスの産業と資本の蓄積が遅れた一因とは言えるだろう。影響の一つとして、フランス経済および財政の枯渇化もその一因とされる。それは、100年後の[[フランス革命]]にも遠因を与えていると言えるだろう。また、ユグノーが多かったフランスの[[時計師]]たちの多くが[[スイス]]へ移住したことで、フランスの時計産業の衰退およびスイスの時計産業の発展の契機となったという面もある。
 
== 脚注 ==
なお、この勅令は[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]時代の[[1787年]][[11月7日]]になって、[[ヴェルサイユ勅令]]の署名により破棄された。
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