「佐瀬勇次」の版間の差分

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[[米長邦雄]]ら、多数の弟子を持つことで知られ、名[[伯楽]]との評価が高い。戦前のアマ名人戦の県代表となる。[[1938年]]入門。軍隊生活を経験し、復帰後の[[1944年]]に四段となる。[[1946年]]より[[順位戦]]に参加。[[1974年]]、[[日本将棋連盟]]専務[[理事]]。現役生活44年間対局不休、無遅刻の記録を続けながら[[1990年]]3月に[[引退]]。生涯成績は458勝599敗。[[1994年]]3月、[[尿毒症]]のため死去。享年75。
 
盤上では目立った実績はなく、少年時代内弟子の米長邦雄が、家の雑用などをしたときのご褒美の対局をあんたに教わってお断りします。師匠と指したらあんた程度、師匠の癖がつき、師匠どまりの棋士しかれない」といっ拒否し鉄拳、げんこつを食らったという逸話もある<ref>NHK[[ラジオ深夜便]]</ref>。また「私が今日あるのは佐瀬先生に一局も教わらなかったから」とも言っていた。しかし師匠としては人望手腕ともに卓越しており、米長も口では「私が今日あるのは佐瀬先生師匠どまり一局も教わらる」と言ってげんこつを食らった逸話について「しばくして『考えたら、お前の言うおりだ』われた」と明かしており「破門だ、出てつつも師匠け」と弟子に言わなかったのは名[[伯楽]]だとして深く敬っていた。
 
米長邦雄・丸山忠久と二人の名人の師匠となったが、これは近代将棋史上[[木見金治郎]]([[大山康晴]]・[[升田幸三]]の師匠)と佐瀬のみの記録である。