「カシミール」の版間の差分

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カシミールの東側半分以上を占める[[ヒマラヤ山脈]]と[[カラコルム山脈]]に挟まれた一帯、[[ラダック]](および[[ザンスカール]])地方と[[バルティスターン]]地方は、元々[[チベット民族|チベット系]]の{{仮リンク|ラダック王国|en|Namgyal_dynasty_of_Ladakh|label=ラダック王国}}があったが、[[1834年]]に最後の王[[:nl:Tsepal Namgyal|Tsepal Namgyal]]が[[シク王国]]に敗れ、[[:en:Stok]]に追放され、シク王国の支配下に入った<ref>http://www.bestladakh.com/jap/ladakhbb.html</ref>。
 
[[1841年]]にはシク王国の[[ドーグラー]]勢力と[[チベット]]との間で[[ドーグラー戦争]]が起きた。その際に捕虜となったカシミール兵士の末裔数千人が、[[ラサ]]など中央チベットに居住している。これらはカチェ(チベット語でカシミール人)と呼ばれ、イスラム教の信仰を保っているが、言語や大部分の習俗はチベット人に同化している。これがひいてはチベットでイスラーム教徒の移民を漠然とカチェと呼ぶようになり、[[青海省]]・[[甘粛省]]方面から移住してきた[[回族]]もギャナ・カチェ(直訳すれば「中国のカシミール人」の意)と呼ばれる<ref>{{cite web
| url = http://star.aa.tufs.ac.jp/tibet/?%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8%2F1838{{urlencode:チベット史年表}}/1838-1855</ref><ref>http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/tibet/1.html</ref>。
| title = チベット史年表/1838-1855 - ★'s Lab
| publisher = [[東京外国語大学]]
| accessdate = 2017-12-11
}}</ref><ref>http://www3.ocn.ne.jp/~kenro/history/tibet/1.html</ref>。
 
だが1845年からの[[シク戦争]]では、[[第1次シク戦争]]の{{仮リンク|ソブラーオーンの戦い|en|Battle of Sobraon}}でイギリスがシク王国を破り、[[ラホール条約]]を締結した。この条約をもってイギリス間接統治の[[ジャンムー・カシミール藩王国]]が成立した<ref>http://www.y-history.net/appendix/wh1302-023.html</ref>。