「吐蕃」の版間の差分
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仏教書には釈迦一族の末裔を王室の起源とする神話が描かれている。中国の旧唐書では中国の遼東地方より移住した[[鮮卑]][[拓跋部]]出身の王家を吐蕃王室の起源とする、より遅い年代の史書ではチベットの波窩地方出身とされる事が多いが信憑性は薄い。吐蕃時代の金石文では、ほぼ例外無く初代王を天の子としている。
{{仮リンク|ナムリロンツェン|zh|囊日論贊|en|Namri Songtsen}}王は[[ラサ]]南東の{{仮リンク|ヤルルン渓谷|en|Yarlung Valley}}([[山南地区|ロカ地方]]、波窩地方)を起点として、近隣部族のセンポやタボ、東部の小部族を征服し勢力をラサ地方へ伸ばした。[[630年]]、ナムリロンツェン王
===ソンツェンガンポ王の領土拡張===
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[[667年]]にガル・トンツェンが死去すると、長子の{{仮リンク|ガル・ツェンニャドムブ|en|Gar Tsenye Dompu|zh|赞悉若}}({{lang-bo|མགར་བཙན་སྙ་ལྡོབ་བུ།}})が大論の位を継いだ。弟の[[ガル・ティンリンツェンジュ|ガル・ティンディン]]({{lang-bo|མགར་ཁྲིང་འབྲིང་བཙན་བྲོད་}})は積極的に唐の西域で軍事行動を行い、[[670年]]、唐の[[安西都護府]]管轄の[[安西四鎮]]([[亀茲]]、[[焉耆]]、[[于闐]]、[[疏勒]])を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンディンは40万の大軍を用いて、[[青海湖]]南の大非川で唐軍を大いに打ち破った({{仮リンク|大非川の戦い|zh|大非川之战}})。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、[[新羅]]が反乱を起こした([[唐・新羅戦争]])。
676年、マンソンマンツェン王が死去し、[[チドゥソンツェンポ]](ཁྲི༌འདུསསྲོང༌བཙན།)
[[680年]]、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。
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!カナ表記(岩尾)<ref>岩尾,2010</ref>
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| - || gnam ri slon brtsan || ??–630 || ??-630 ||南日松賛|||||| ナムリロンツェン
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| I || srong brtsan sgam po || 581?,617?–649 || 594?,630?–649 ||棄宗弄讃|| ソンツェンガムポ<ref>佐藤,1958,p.206</ref>|| ソンツェン・ガムポ<ref>山口,1988,pp.11,27表</ref>|| ティソンツェン,ソンツェンガムポ<ref>岩尾,2010,p.17ほか</ref>
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*[[山口瑞鳳]]『チベット(下)』([[1988年]]、[[東京大学出版会]]、ISBN 4-13-013034-X)
*[[山口瑞鳳]]『チベット(下)改訂版』([[2004年]]、[[東京大学出版会]]、ISBN 978-4130130493)
*{{Citation
| title = 吐蕃史稿
| author = 才讓
| year = 2010
| publisher = [[人民出版社]]
| isbn = 9787010087283
}}
== 関連項目 ==
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*[[吐蕃王朝の国王一覧]]
*[[吐谷渾]]
{{デフォルトソート:とはん}}
{{history-stub}}
▲[[Category:かつて存在したアジアの国家]]
▲[[Category:チベットの歴史]]
▲[[Category:チベットの別名]]
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