「順徳天皇」の版間の差分

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== 略歴 ==
後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる<ref name="eb"/><ref name="asahi"/><ref name="en"/>。[[正治]]元年([[1199年]])1月に[[親王宣下]]<ref name="asahi"/>。正治2年([[1200年]])4月に[[土御門天皇]]の皇太弟となる<ref name="asahi"/>。穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。[[摂政]]である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた[[後白河法皇]]の皇女で歌人として名高かった[[式子内親王]]を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった[[殷富門院]](式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている<ref>栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」(初出:『日本史研究』465号(2001年)/所収:栗山『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0) </ref>。さらに承元2年(1208年)8月、莫大な[[八条院領]]を相続人である異母姉の[[昇子内親王]](春華門院)を准母とし、[[建暦]]元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。
 
[[承元]]4年([[1210年]])11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の[[譲位]]を受けて[[践祚]]し、14歳で[[即位]]する<ref name="eb"/><ref name="asahi"/>。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による[[院政]]が継続される。そのため、即位後の内裏は閑院であった<ref name="asahi"/>。天皇の治世に関して、『[[増鏡]]』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の[[行幸]]しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、[[鎌倉幕府]]に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。
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直接政務に与らない天皇は、王朝時代の[[有職故実]]研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『[[禁秘抄]]』を著した<ref name="asahi"/><ref name="en"/>。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で[[和歌]]や詩にも熱心で、[[藤原定家]]に師事して歌才を磨き、[[藤原俊成女]]や[[藤原為家]]とも親交があった。[[家集]]としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『[[八雲御抄]]』が知られる<ref name="asahi"/><ref name="en"/>。『[[続後撰和歌集|続後撰集]]』以下の[[勅撰集]]には159首が入る。
 
父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、[[承久]]3年([[1221年]])4月に子の懐成親王([[仲恭天皇]])に譲位して上皇の立場に退いた<ref name="asahi"/>。父上皇以上に[[鎌倉幕府]]打倒に積極的で、5月に[[承久の乱]]を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった<ref name="en"/>。乱後の[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]、上皇は都を離れて[[佐渡島|佐渡]]へ[[流罪|配流]]となった<ref name="asahi"/><ref name="en"/>。在島21年の後、[[仁治]]3年([[1242年]])[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]に佐渡で[[崩御]]した<ref name="asahi"/>。{{要出典範囲|date=2015年9月|病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、[[断食]]を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる}}。なお、在島中の詠歌として、[[貞永]]元年([[1232年]])の『順徳院御百首』が残されている<ref name="en"/>。配流後は'''佐渡院'''と称されていたが、[[建長]]元年([[1249年]])7月20日'''順徳院'''と[[諡]]された<ref name="asahi"/>。
 
藤原定家は幕府への配慮から、『[[新勅撰和歌集]]』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『[[小倉百人一首]]』には以下の1首を採録した。
* ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
 
[[角田文衞]]は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、[[伊勢平氏|平家]]の生き残りである祖母[[平教子]]の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。
 
== 系譜 ==