「太田静子」の版間の差分

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同年[[11月12日]]、太宰の子([[太田治子]])を出産。[[11月15日]]、弟・通が三鷹を訪れ、太宰に新生児の命名と[[認知]]を願い出る。太宰は「この子は/私の可愛い子で/父をいつでも誇つて/すこやかに育つことを念じてゐる」との認知書を認めた上、自らの本名・津島修治から一字採って「治子」と命名。静子の側は、太宰の子を産んだために親類縁者から義絶を受けたが、太宰からは月額1万円の養育費を送られることを約束された。[[12月15日]]、『斜陽』が新潮社より刊行される。
 
[[1948年]](昭和23年)[[6月13日]]、太宰が愛人[[山崎富栄]]と入水自殺。[[8月1日]]、[[井伏鱒二]]たち、今官一、伊馬春部の訪問を受け、「太宰治ノ名誉及ビ作品ニ関スル言動(ヲ傷ツケルヤウナ言動)(新聞・雑誌ニ談話及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。しかし津島家からの冷遇に耐えかね、10月、この誓約を破る形で『斜陽日記』を刊行。この日記の内容に『斜陽』と重なる部分があまりに多かったため、太宰死後の捏造ではないかとの説を唱えられて悲しんだ。
 
[[1950年]](昭和25年)11月、『あはれわが歌』をジープ社から刊行。以後は炊事婦や寮母として生計を立て、津島家からの差別待遇に苦しみながらも、静子の男兄弟らの支援・協力も得て娘・治子を育て上げた。