「スティーブ・マックイーン」の版間の差分

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[[1947年]]、マックイーンは[[アメリカ海兵隊]]に入隊、[[:w:en:Private first class|一等兵]]に昇進し、戦闘部隊に配属された<ref name="terrillx1x"/>。当初彼はその反抗的な態度を顕わにし、二等兵に7回降格した。彼は週末の休暇が終了した後、無断で隊に戻らずガールフレンドの家に二週間留まり、[[:w:en:Shore patrol|憲兵]]によって捉えられた。彼は逮捕の際に抵抗し41日間[[営倉]]入りした<ref name="terrillx1x"/>。この一件の後、彼は自己改善にエネルギーを集中させると決心し、海兵隊の規律を受け入れた。彼は北極海での演習中に他の海兵隊員5名の命を救った。タンクの中にいた5名を流氷がタンクを突き破る前に助け出した<ref name="terrillx1x"/><ref>{{cite web |last=Enk |first=Bryan |title=Real Life Tough Guys |url=http://movies.yahoo.com/photos/real-life-tough-guys-1374864278-slideshow/afi-life-achievement-award-a-tribute-to-mel-brooks-awards-presentation-photo-1374864255359.html|publisher=Yahoo.com|accessdate=27 July 2013}}</ref>。彼は儀仗兵に任命され、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]のヨットの警備に配属された。マックイーンは[[1950年]]まで海兵隊で勤務し、その後[[名誉除隊]]した。彼は後に海兵隊時代は楽しかったと語っている<ref>{{cite web|url=http://www.military.com/veteran-jobs/career-advice/military-transition/famous-veteran-steve-mcqueen.html |title=Famous Veteran: Steve McQueen |publisher=Military.com |date= |accessdate=2014-03-08}}</ref>。
 
== 俳優として ==
=== 1950年代 ===
[[File:Steve McQueen - The Great St. Louis Bank Robbery (1959) - 2.jpg|thumb|upright=1.2|「セントルイス銀行強盗」でのマックイーン]]
1952年、[[:w:en:G.I. Bill|G.I.ビル]]による援助金を得てマックイーンはニューヨークで[[サンフォード・マイズナー]]の[[ネイバーフッド・プレイハウス]]で演劇の勉強を始めた<ref name="terrillx1x"/>。うわさによれば、後に「King of Cool」と渾名されるマックイーンの初めての台詞は、1952年に[[イディッシュ・シアター]]のスター女優であった[[モリー・ピコン]]がプロデュースした劇中でのダイアログであった。マックイーンの演じたキャラクターが発した短い台詞は「''Alts iz farloyrn'' ("''All is lost.''")」であった<ref>Karlen, Neal, "The Story of Yiddish: How a Mish-Mosh of Languages Saved the Jews," William Morrow, 2008, ISBN 006083711X</ref>。この間に彼は[[ステラ・アドラー]]に演技を学び、そのクラスで[[ジア・スカラ]]と出会っている<ref name="GS1">{{cite book|last=Saint James|first=Sterling|title=Gia Scala: The First Gia|date=December 10, 2014|publisher=Parhelion House|isbn=978-0989369510}}</ref>。
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マックイーンは『''Peg o' My Heart''』、『{{仮リンク|結婚式のメンバー|en|The Member of the Wedding}}』、『''Two Fingers of Pride''』等の劇に端役として出演した。[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウェイ]]のデビューは[[1955年]]の『[[夜を逃れて]]』で、[[ベン・ギャザラ]]が主役であった<ref name="terrillx1x"/>。
 
1955年後半に25歳のマックイーンはニューヨークを離れ、カリフォルニアに向かった。[[エコーパーク (ロサンゼルス)|エコーパーク]]地区のベスタ通りに住み、ハリウッドでの演劇の仕事を探した<ref name=oll>{{cite web|title=Our Lady of Loretto Elementary School: Local History Timeline|url=http://www.ollalumni.com/local-history.php|accessdate=2011-06-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110715000634/http://www.ollalumni.com/local-history.php|archivedate=2011年7月15日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。『{{仮リンク|ウェスティングハウス・スタジオ・ワン|en|Westinghouse Studio One}}』のエピソード、「''The Defenders''」に出演すると、ハリウッドのマネージャーである[[ヒラード・エルキンス]](マックイーンの最初の妻、ネリーをマネージメントしていた)の目にとまる<ref name="neile">{{cite book | last=McQueen Toffel | first=Neile | authorlink = Neile Adams| title=My Husband, My Friend | publisher=Signet Books | year=2006 | isbn=1-4259-1818-2}}</ref>。エルキンスは[[B級映画]]が若い俳優を評価するのに適した場所だと決めた。マックイーンは[[ロバート・ワイズ]]の『[[傷だらけの栄光]]』([[ポール・ニューマン]]主演)に最初の端役を得た。続いて『[[ニューヨークの顔役]]』、『[[マックイーンの絶対の危機]]』(初の主演)、『[[セントルイス銀行強盗]]』に出演した。
 
マックイーンの最初のブレイクはテレビ映画であった。[[デイル・ロバートソン]]主演の[[NBC]]の西部劇『[[拳銃街道]]』に出演した。マックイーンのマネージャーとなったエルキンスはプロデューサーの[[ヴィンセント・M・フェンリー]]への売り込みに成功し、『[[トラックダウン (テレビドラマ)|トラックダウン]]』に賞金稼ぎのジョシュ・ランダル役で出演することとなった。『トラックダウン』の主役は古くからのニューヨークでのレース仲間であった[[ロバート・カルプ]]であった。その後マックイーン主演の[[パイロットフィルム]]が撮影され、それは『[[拳銃無宿]]』のタイトルで[[1958年]]9月に[[CBS]]で放送された。
 
=== 1960年代 ===
[[File:Steve McQueen Virginia Gregg Wanted Dead or Alive 1959.JPG|thumb|upright|『拳銃無宿』でのマックイーン、[[ヴァージニア・グレッグ]]と、1959年。]]
『拳銃無宿』のDVDのインタビューで『トラックダウン』主演のロバート・カルプは、ハリウッドにマックイーンを連れてきて、ランダルの役がもらえるようにしたのは自分だと主張している。彼は、マックイーンに「早撃ちの芸術」を教えたのだと言うのである。そして撮影の2日目には、マックイーンが彼をたたきのめしたのだと付け加えている。マックイーンはこのシリーズに出演することでよく知られるようになった<ref name="terrillx1x"/>。ランダルの特別なホルスターは、典型的な西部劇のキャラクターが[[回転式拳銃|リボルバー]]を収めたのに対して、ソード・オフ(銃身切断)の[[ウィンチェスターライフル]]({{仮リンク|メアーズレッグ|en|Mare's Leg}}と渾名される)を収めることができた。しかしながら、ガンベルトのカートリッジは「より手強く見える」ということで、ダミーの.45-70が選ばれた。賞金稼ぎの一般に否定的なイメージと結びついて、ミステリーと無関心で満たされるアンチヒーローのイメージを増し、この番組を典型的なTV西部劇から卓越させた。1958年から1961年前半まで続いた94のエピソードでマックイーンはロサンゼルス、[[チャッツワース (ロサンゼルス)|チャッツワース]]の[[:w:en:Movie Ranch|アイヴァーソン・ムービー・ランチ]]のなじみとなった。『拳銃無宿』の屋外アクションの大半は同所で撮影された。
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29歳のときにマックイーンは重要なブレイクを得た。[[サミー・デイヴィスJr.]]がラジオで[[フランク・シナトラ]]について若干の否定的な発言をした後、『[[戦雲]]』からシナトラがデイヴィスを降板させ、その役がマックイーンに回ってきた。シナトラはマックイーンに特別な何かを感じ、マックイーンの好ましいレビューから、この若い俳優がクローズアップの多くを得たことを確実にした。マックイーンが演じたビル・リンガーは、[[ジープ]]を高速で運転したり、飛び出したり、[[トンプソン・サブマシンガン|トミーガン]]を扱ったりした。
 
『戦雲』の後、監督の[[ジョン・スタージェス]]はマックイーンに次の映画の役を与え、「彼にカメラを与える」と約束した。『[[荒野の七人]]』(1960)(1960年)でマックイーンはヴィン・タナーを演じ、[[ユル・ブリンナー]]、[[ロバート・ヴォーン]]、[[チャールズ・ブロンソン]]、[[ジェームズ・コバーン]]らと共演した。同作はマックイーンの初のメジャーヒット作となり、『拳銃無宿』からの撤退に繋がった。無口なマックイーンの集中的な描写は、彼の経歴を描き出した。彼は射撃の際にタッチを付け加えた。それはショットガンを振って弾丸をロードする際、ショットのバックグランドの間に銃を繰り返しチェックすること、帽子の縁を拭くことなど。その仕草は共演者のブリンナーを悩ませた。彼はマックイーンが場面を盗もうとしていると主張した<ref name="terrillx1x"/>。本作の悪役カルヴェラを演じた[[イーライ・ウォラック]]は自叙伝<ref name="Wallach">{{cite book|last=Wallach|first=Eli|title=The Good, the Bad and Me: my anecdotage|year=2005|publisher=Houghton Mifflin Harcourt|isbn=0-15-101189-3}}</ref> で、ブリンナーとマックイーンのキャラクターが初めて出会う葬列シーンの撮影を見ている間、自分の楽しみを隠すのに苦労したと伝えている。ブリンナーはマックイーンがショットガンを大きく振るアクションに激怒した。それは観客の注意をマックイーンに効果的に回した。ブリンナーはマックイーンと同じ場面の中で銃を抜くことを拒否した。そして、彼のキャラクターが銃を速く抜くのを望まなかった<ref name="terrillx1x"/>。
 
マックイーンはスタージェスの次の大作、『[[大脱走]]』(1963)(1963年)にメインキャストとして出演することとなった。同作は[[第二次世界大戦]]中に[[ドイツ軍]]の捕虜収容所[[スタラグ・ルフト III]]で発生した脱走事件を元にした実話であった。マックイーンが演じるバージル・ヒルツはオートバイで鉄条網をジャンプするが、保険会社が契約に難色を示したためマックイーンは実際にジャンプできず、彼の代役として友人でバイク仲間の[[バド・エキンズ]]が行った。エキンズは遠目ではマックイーンによく似ていた<ref>Rubin, Steve. - Documentary: ''Return to 'The Great Escape''. - MGM Home Entertainment. - 1993.</ref>。後に[[ジョニー・カーソン]]が『[[ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン|ザ・トゥナイト・ショー]]』の放送でマックイーンのジャンプを祝福しようとすると、マックイーンは「あれは僕じゃい。あれはバド・エキンズだ。」と言った。本作は興行的に大成功し、マックイーンのスーパースターとしての身分を確実にした<ref name="Maltin225">{{Cite book
| last = Maltin
| first = Leonard
| authorlink = Leonard Maltin
| title = Leonard Maltin's Family Film Guide
| publisher = Signet
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1973年、[[ローリング・ストーンズ]]がアルバム『[[山羊の頭のスープ]]』に収録した「[[スター・スター]]」でマックイーンについて言及した。伝えられるところでは、マックイーンはこれを楽しみ、個人的に許可を与えた<ref>{{cite book|last=Carr|first=Tony|title=The Rolling Stones: an illustrated record|year=1976|publisher=Harmony Books|isbn=0-517-52641-7|page=77}}</ref>。<!--The lines were "Star fucker, star fucker, star fucker, star fucker star/Yes you are, yes you are, yes you are/Yeah, Ali MacGraw got mad with you/For givin' head to Steve McQueen".-->
 
『ゲッタウェイ』公開時までマックイーンは世界で最も高給取りの俳優であった<ref name="barger">{{cite book | last=Barger | first=Ralph | authorlink= Ralph "Sonny" Barger |last2=Zimmerman | first2=Keith | last3=Zimmerman | first3=Kent | title=Ridin' High, Livin' Free: Hell-Raising Motorcycle Stories | year=2003 | publisher=Harper Paperbacks | isbn=0-06-000603-X |page=37}}</ref>。しかし、1974年の『[[タワーリング・インフェルノ]]』で長年のライバルであった[[ポール・ニューマン]]や、かつて共演したダナウェイと共に出演して世界的な大ヒットを記録した後、マックイーンは公衆の前から姿を消し、オートバイレースに集中したり、[[モーターホーム]]とヴィンテージの[[インディアン (オートバイ)|インディアン]]と共に国中を旅行した。彼は1978年の『[[民衆の敵 (1978年の映画)|民衆の敵]]』まで復帰しなかった。[[ヘンリック・イプセン]]の[[戯曲]]を映画化した本作では、ヒゲを蓄え眼鏡を掛けた19世紀の医師を演じたが、全国での公開は見送られ、自主上映会などで公開された。
 
彼の最後の2つの映画は、実話に基づいていた。『[[トム・ホーン (映画)|トム・ホーン]]』は、元陸軍の斥候兵がプロのガンマンとして大牧場に雇われ牛泥棒を追い詰め、後に羊飼いの少年を射殺した容疑を掛けられるという西部劇で、『[[ハンター (1980年の映画)|ハンター]]』は現代の[[バウンティハンター|賞金稼ぎ]]についてのアクション映画で、両方とも1980年に公開された。
 
=== 逃した役割 ===
マックイーンは『{{仮リンク|ティファニーで朝食を (映画)|label=ティファニーで朝食を|en|Breakfast at Tiffany's (film)}}』の主演男優を依頼されたが、『拳銃無宿』の契約のため受けることができなかった(代わりに[[ジョージ・ペパード]]が起用された)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19>Jones Meg. - "McQueen biography is portrait of a rebel". - ''[[Milwaukee Sentinel]]''. - March 19, 1994.</ref> 彼はまた『[[オーシャンと十一人の仲間]]』<ref>Rahner, Mark. - "Speeding "Bullitt" - New DVD collections remind us why McQueen was the King of Cool". - ''[[シアトル・タイムズ|The Seattle Times]]''. - June 12, 2005.</ref>、『[[明日に向って撃て!]]』(彼の弁護士とエージェントはポール・ニューマンの弁護士とエージェントと出演料に関して合意することができなかった)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19/>、『[[ザ・ドライバー]]』<ref>Burger, Mark. - "Walter Hill Crime Story from 1978 Led the Way in its Genre". - ''[[Winston-Salem Journal]]''. - June 9, 2005.</ref><ref>French, Philip. - Review: "DVD club: No 44 The Driver". - ''[[オブザーバー (イギリスの新聞)|The Observer]]'' - November 5, 2006.</ref>、『[[地獄の黙示録]]』<ref name=Nolan />{{rp|172}}『[[ジャックポット (映画)|ジャックポット]]』<ref>Shields, Mel. - "Elliott Gould has had quite a career to joke about". - ''[[The Sacramento Bee]]''. - October 27, 2002.</ref>、『[[ダーティハリー]]』、『[[遠すぎた橋]]』、『[[フレンチ・コネクション]]』(彼は他の刑事映画に出演したくなかった)<ref name="terrillx1x"/><ref name=JonesM-MS-1994-03-19/>、『[[未知との遭遇]]』などの出演も依頼されていた。
 
『[[グラン・プリ]]』のDVDに収録された[[ジョン・フランケンハイマー]]監督と[[ジェームズ・ガーナー]]のインタビューによると、フランケンハイマーは当初アメリカ人F1ドライバーのピート・アーロン役にマックイーンを考えていた。フランケンハイマーはマックイーンに会って出演交渉をすることができず、代わりにプロデューサーでビジネスパートナーのエドワード・ルイスをマックイーンの元に送った。マックイーンとルイスはたちまち衝突し、会談はご破算となり、ガーナーがアーロン役に起用された。
 
[[スティーブン・スピルバーグ]]監督は『[[未知との遭遇]]』のロイ・ニアリー役に当初マックイーンを考えていた。『未知との遭遇』のDVDでスピルバーグは、バーでマックイーンに会い、そこでマックイーンはビールを次から次へと飲んで酔っ払っていたという。別れる前にマックイーンは、スピルバーグに対して役を受けることはできない、なぜならキューに合わせて泣くことができないからだと話した<ref>Clarke, Roger. - "The Independent: Close Encounters of the Third Kind 9pm Film4". - ''[[The Independent]]''. - April 21, 2007.</ref><ref>Tucker, Reed, Isaac Guzman and John Anderson. - "Cinema Paradiso: The True Story of an Incredible Year in Film". - ''[[New York Post]]''. - August 5, 2007.</ref>。スピルバーグはニアリーが泣くシーンをストーリーからカットすると申し出た。しかしマックイーンは異議を唱え、それは脚本の中で最高の場面だと語った。ニアリー役は結局[[リチャード・ドレイファス]]が演じることとなった。
 
[[ウィリアム・フリードキン]]監督はマックイーンを『[[恐怖の報酬 (1977年の映画)|恐怖の報酬]]』(1977)の主役に起用することを望んだ。『恐怖の報酬』は[[ドミニカ共和国]]で主に撮影されることになっていたが、マックイーンは撮影期間中にアリ・マッグローと離れたくなかった。マックイーンはマッグローをプロデューサー役で出演させるようフリードキンに頼み、彼女は主要部分の撮影時にその場に居合わせることが考えられた。フリードキンはこの状態に同意せず、マックイーンの代わりに[[ロイ・シャイダー]]を起用した。フリードキンは後に、マックイーンを起用しなかったことが映画のパフォーマンスと興行収入を損なったと述べている。
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マックイーンと[[バーブラ・ストライサンド]]は『[[ガントレット (1977年の映画)|ガントレット]]』に暫定的に配役された。しかし両者はエゴが衝突しうまくやっていくことができなかった。両者は降板することとなり、代わりに[[クリント・イーストウッド]]と[[ソンドラ・ロック]]が起用された。
 
マックイーンは[[ディヴィッド・マレル]]の1972年の小説『[[ランボー]]』の映画化が発表されると、「[[ジョン・ランボー]]」のキャラクターに対する関心を表した。しかしプロデューサーはマックイーンの年齢を理由にそれを拒絶した<ref>Toppman, Lawrence. - "Will He of Won't He?". - ''[[The Charlotte Observer]]''. - May 22, 1988.</ref><ref>Morrell, David, Jay MacDonald. - "Writers find fame with franchises". ''[[The News-Press]]''. - March 2, 2003.</ref>。1976年には『[[ボディガード (映画)|ボディガード]]』([[ダイアナ・ロス]]と)への出演を打診された。しかしながら、映画はマックイーンの死後まで制作されなかった<ref>Beck, Marilyn, Stacy Jenel Smith. - "Costner Sings to Houston's Debut". - ''[[Los Angeles Daily News]]. - October 7, 1991.</ref>。『{{仮リンク|ブラッディ・ガン|en|Quigley Down Under}}』の計画は1974年初頭に始まり、マックイーンの主演が考えられていたが、製作開始は1980年となり、その頃にはマックイーンは病床にあったため、[[トム・セレック]]が主演となった<ref>Persico Newhouse, Joyce J. - "'Perfect Hero' Selleck Takes Aim at Action". - ''[[Times Union (Albany)|Times Union]]''. - October 18, 1990.</ref>。マックイーンは『[[レイズ・ザ・タイタニック]]』の主演もオファーされていたが、脚本は平凡であると感じられた。『タワーリング・インフェルノ』出演後に[[アーウィン・アレン]]と契約し、1980年に続編への出演を打診されたが、既に病床にあった。映画化は廃棄され、アレンはポール・ニューマン主演で『[[世界崩壊の序曲]]』を製作したが、興行的に大失敗した。マックイーンは『タワーリング・インフェルノ2』を辞退した直後に死去した{{Citation needed|date=August 2009}}。
 
==スタント、レース、飛行機==