「獅子文六」の版間の差分

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[[日清戦争]]開戦の前年、[[1893年]]に、[[横浜市]][[中区_(横浜市)|中区]]月岡町9番地(現在の横浜市[[西区_(横浜市)|西区]]老松町の迎賓館付近)に誕生。父の岩田茂穂は、[[福澤諭吉]]に学んだのちに、絹織物商「岩田商会」を営んでいたが、豊雄が9歳のおりに死去する。[[横浜市立老松小学校]]から[[慶應義塾幼稚舎]]に編入学。[[慶應義塾普通部]]を経て、[[慶應義塾大学]]理財科予科に進学するも中退。
 
[[1922年]]から数年間、演劇の勉強のために[[フランス]]へ渡る。フランス人のマリー・ショウミーと結婚し、1925年の帰国後に長女の巴絵が生まれる。妻のマリーが病気のためにフランスへ帰り、マリーの死去から自身の再婚までは、長女と二人だけの暮らしが続いた。

この時期には、演劇の仕事だけでは生活が立ち行かなくなり、「四四、十六」をもじった'''獅子文六'''の筆名で、小説家として活動するようになる。[[1934年]]、雑誌『[[新青年 (日本)|新青年]]』に掲載された『金色青春譜』が、長編小説の処女作である。[[1936年]]に、最初の新聞連載小説として[[報知新聞]]に掲載された『[[悦ちゃん]]』は大好評となり、このときに小説家としての獅子文六の筆名が知れ渡ることになった。
 
[[1937年]]、[[岸田國士]]、[[久保田万太郎]]と共に[[文学座]]を創立する。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した[[劇団雲]]、[[劇団NLT]]の面々からも信頼を一手に受けた。