「藤原安子」の版間の差分

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[[天慶]]3年([[940年]])、成明親王(村上天皇)に入内。[[内裏]]の[[飛香舎]]で婚儀を挙げる。同7年([[944年]])成明親王が立坊、[[皇太子]]妃となる。同8年([[945年]])、[[従五位|従五位上]]。同9年([[946年]])[[従四位|従四位下]]に進み、村上天皇[[即位]]で[[従三位]]・[[女御]]となり[[昭陽舎]]に局を賜る(のち飛香舎)。[[天暦]]4年([[950年]])第2皇子憲平親王([[冷泉天皇]])を出産、生後2ヶ月で[[皇太子]]に立てられる。同10年([[956年]])[[従二位]]に進み、[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])[[中宮]]に冊立。しかし、天徳4年([[960年]])3月に伯父である[[散位]]・[[藤原興方|興方]]が、5月には父・[[右大臣]]・[[藤原師輔|師輔]]が[[崩御#薨去|薨去]]するなど不幸に見舞われた。応和4年([[964年]])、選子内親王を出産後間もなく[[主殿寮]]にて[[崩御]]。享年38。のち[[康保]]4年([[967年]])冷泉天皇即位で[[皇太后]]を、さらに[[安和]]2年([[969年]])円融天皇即位で[[太皇太后]]を追贈される。
 
村上天皇即位前に入内した最初の妃であり、また[[皇太子]]憲平親王を始めとして妃のうちで最も多い3男4女をもうけたことから、天皇に非常に重んじられた。しかし『[[大鏡]]』によれば非常に嫉妬深い性格で、後に天皇の寵愛を受けた[[宣耀殿]]女御[[藤原芳子]](安子の従姉妹)の姿を垣間見したときにはあまりの美しさに妬心やみがたく、壁の穴から土器(かわらけ)の欠片を投げつけるという暴挙に出たという。しかもそれに立腹した[[天皇]]が安子の兄弟らに謹慎を命じると、天皇に詰めよってついに撤回させてしまったというから、話半分としても気性の激しい女性だったようであり、また、皇太子の生母としての彼女の影響力の大きさが窺える。なお、この土器投げの逸話は[[岡野玲子]]の漫画『[[陰陽師]]』にも登場する。また、円融天皇も母親であった安子を死後も慕っていたことが知られ、[[関白]]藤原伊尹の死後には伊尹の没後に三弟の[[藤原兼家]]の[[関白]]就任が有力視されていたものの、次弟の藤原兼通が生前に安子が書いた「関白は兄弟順に」という書付を見せると直ちに兼通を次の関白としたという故事(『大鏡』、ただしこの事件の経緯を詳しく記した『[[親信卿記]]』(天禄3年11月26日条)には彼女の遺命があったことを記すのみで内容は記されていない)や、同母兄弟の[[資子内親王]]や[[為平親王]]が[[一品親王|一品]]に叙せられた(ただし、為平叙任は円融[[譲位]]後)のは、円融が亡き母に代わって同母兄弟を庇護しようとした意欲の表れと言われている。[[栗山圭子]]は安子の遺命の内容を伊尹や兼家に庇護された冷泉以外の皇子女の後見を兼通に依頼したものであったと推測し、その結果として成長した円融が自身の唯一の後見になった兼通を関白に任じたと推測している<ref>栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2</ref>
 
安子自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇・円融天皇の即位は[[九条流]][[摂家|摂関家]]発展の元となり、やがて安子の甥[[藤原道長|道長]]を頂点とする全盛期へ至ることになる。
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陵墓は宇治陵([[京都府]][[宇治市]]木幡中村)。
 
== 脚注 ==
<references/>
{{歴代皇后一覧}}
{{歴代日本の皇太后一覧}}