「藤原彰子」の版間の差分

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[[寛弘]]5年([[1008年]])9月11日、土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。道長の喜びぶりは、『[[紫式部日記]]』に詳しい。翌年、さらに敦良親王(後朱雀天皇)を産む。
 
寛弘8年([[1011年]])6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王([[三条天皇]])に譲位、彰子所生の敦成親王の立太子が決定した。一条天皇の真意が定子所生の第一皇子・敦康親王にあったことを察していた上に自身も深い愛情を込めて養育していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父を怨んだといわれる(『[[権記]]』『栄花物語』ほか)<ref>ただし、後世の『[[古事談]]』『[[愚管抄]]』には、一条天皇の死後、彰子が道長と共に天皇の遺品を整理していた際、「'''三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し'''(天皇が正しい政を欲するのに、道長一族の専横によって国は乱れている)」と記された天皇の手記を見つけ、道長がこれを焼き捨てたという記述が見える。</ref>。
 
==国母へ==