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* 大関に昇進してから1967年頃までは9勝6敗の成績が多かったため「クンロク大関」と呼ばれていた。ある日玉の海は北の富士に対して「北の富士関、ぼく、最近、"カンロク大関"って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子であった<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P161-162</ref>。
* [[龍虎勢朋]]と並んで[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]を着用した力士のはしりとも言われる。ただし、玉の海はファッションの目的ではなく、独自の調整法であるランニング<ref>「腰が軽くなる」と言われ、角界ではタブー視されていた。</ref>のために着ていた。大関昇進後、玉の海は通常より1時間半早く起きてランニングを行うようになった。ランニングは師匠の指示によって取り入れたという相撲専門文献の記述もあり、このランニングの習慣が一門の後輩である[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]や[[輪島大士|輪島]]も取り入れていたことで知られる<ref name="tamanoumi33"/>。
** 1971年1月場所千秋楽の深夜、怪我で途中休場していた若き日の[[貴ノ花利彰]]は、飲酒して帰宅途中、ジャージ姿でランニング中の玉の海の姿を目撃して我に返り、己の不甲斐なさを反省したという。この日、玉の海は14戦全勝で迎えた大鵬との本割・決定戦で連敗してしまい、全勝優勝どころか優勝まで逃したばかりだった<ref>なお、この1971年1月場所の大鵬の優勝は、現役最後となる32回目の優勝でもあった。</ref>
* 玉の海は自分の死を予感していたとも言われる。亡くなる前日の[[10月10日]]、部屋の女将([[玉乃海太三郎]]夫人)が病院に見舞いに来た際、「昨日、突然心臓が痛み出して死ぬかと思いましたよ…」とポツリと述べたという。また、同じく見舞いに来た[[長谷川勝敏|長谷川]]([[佐渡ヶ嶽部屋]])に対して「もう最後かもしれんから(俺の)写真を撮っておけ」とも言ったという。さらに、自身の入院直前に行われた大鵬の引退相撲の際には、二所ノ関一門の[[大麒麟将能]]([[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]])・[[琴櫻傑將]](佐渡ヶ嶽部屋)の両大関に対して「もし俺がいなくなったら、お前ら、後を頼むぞ」とまで言っていたことを、何人かの力士が証言している。なお、余談ではあるが、玉の海が入院していた病室は、日本では“死”に通じると言われ、一般に縁起の悪い数字とされる「4」を2つも含む414号室であった<ref>なお、現在の日本の病院では、入院患者の精神的不安に配慮して、病室の番号に「4」を使用することを避ける場合が多くなっている(『[[四の字]]』の項目を参照)。</ref>。
* 横綱現役死二所ノ関一門の開祖である[[玉錦三右エ門]]([[二枚鑑札]]以来あるが、玉錦は二所ノ関親方と現役力士を兼摂していた。1938年に死去)一門開祖であり、玉の海は孫弟子に当たるが、奇しくも二人共に現役横綱として、しか。死因同じ虫垂炎の悪化が原因急逝しあった。
* 玉の海が急逝するとは誰も夢にも思わなかったこともあり、片男波部屋には玉の海の手形が1枚も保管されていなかった。玉の海の死後、師匠の玉乃海太三郎が後援会に頼んで、かつて贈呈したものを返してもらわざるを得なかったほどであった。
* 若名乗りの玉乃島は、弟弟子の[[玉ノ富士茂]]が13代片男波を継承したのち、弟子に受け継がれた(関脇・[[玉乃島新]])。
* 大成を見ることなく亡くなった玉の海だったが、そのことは全く評価を損ねていない。[[玉乃島新|玉ノ洋]]は[[玉ノ富士茂|片男波]]の命によって若名乗りの玉乃島の名を継承し、'''玉乃島 新'''と名乗って[[関脇]]まで昇進した。
* 現役当時は[[ボウリング]]が大好きで、死の直前には女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたと言われている。
* 歴代横綱の中で唯一、初土俵以来皆勤(休場なし)であった。
* 歴史に72人存在する横綱の中で、初土俵以来一切休場を経験しておらず、現役死の寸前まで唯一通算皆勤を記録していた<ref>但し初代から3代までは史実ではない。</ref><ref>1909年6月場所以前は慣習的に幕内力士が千秋楽を休場していたため通算皆勤は事実上達成しようがなく、それ以降に入幕して横綱を掴んだ者も実際に達成に至らなかった。現役横綱の白鵬・日馬富士・鶴竜・稀勢の里も既に現役時に休場を経験している。</ref>。しかし皮肉にも現役最後の1971年9月場所、虫垂炎の痛みをおして強行出場したことが、結果として27歳で急逝となる致命傷にも繋がってしまった。
** 玉の海の急病死を教訓に、この悲劇を繰り返してはならないと当時の[[両国国技館|相撲診療所]]医師の[[林盈六]]が「力士の健康診断に血液検査は不可欠」と判断し、当時日本相撲協会・[[健康保険組合]]理事長だった[[若乃花幹士 (初代)|二子山勝治]](初代若乃花)に『力士の健康診断の項目に血液検査を導入する』ことを提案し、実現させたという<ref>『あの人は今こうしている - 林盈六さん』日刊ゲンダイ 2015年5月21日付17面</ref>。
* 現役最終場所となった1971年9月場所には、蒲郡市立西浦中学校柔道部の13年後輩である[[鳳凰倶往|鳳凰]](当時壁谷、後に関脇まで昇進)が古巣の二所ノ関部屋から初土俵を踏んでおり、皮肉にもこの場所を最後に玉の海はこの世を去っている。翌11月場所番付からも消滅したには玉の海と入れ替わるように新序ノ口となった壁谷の名前が番付に新たに掲載された。
 
== 主な成績 ==