「ギニアビサウ」の版間の差分
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| 国章画像 =[[ファイル:Emblem_of_Guinea-Bissau.svg|80px]]
| 国章リンク =([[ギニアビサウの国章|国章]])
| 標語 =''{{Lang|pt|Unidade, Luta, Progresso}}''<br
| 国歌 =[[わが愛しき祖国]]
| 位置画像 =Guinea-Bissau on the globe (Cape Verde centered).svg
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| 元首等氏名 =[[ジョゼ・マリオ・ヴァス]]
| 首相等肩書 =[[ギニアビサウの首相|首相]]
| 首相等氏名 =
| 面積順位 =133
| 面積大きさ =1 E10
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| GDP統計年MER =2008
| GDP順位MER =176
| GDP値MER =4億
| GDP統計年 =2008
| GDP順位 =174
| GDP値 =8億
| GDP/人 =485
| 建国形態 =[[独立]]
| 確立形態1 =[[ポルトガル]]より
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== 歴史 ==
{{main|ギニアビサウの歴史|[[:en:History of Guinea-Bissau]]}}
=== 先ポルトガル期 ===
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[[1951年]]に、アフリカにおける植民地帝国の維持を望んだ[[アントニオ・サラザール]]政権のポルトガルの植民地法の改正により、ポルトガルの全海外植民地は法的に植民地からポルトガルの海外州となったが、その後も各植民地の統治の実態に大きな変化はなかった。[[アミルカル・カブラル]]によればポルトガル領だった植民地時代のギニア、[[アンゴラ]]、[[モザンビーク]]、各植民地の非識字率は99%に達していた<ref>アミルカル・カブラル/白石顕二、正木爽、岸和田仁訳「ギニア・ビサウの現実と闘争」『アフリカ革命と文化』亜紀書房、1980年10月。p.19</ref>。
[[
[[1956年]]には[[アミルカル・カブラル]]が[[クレオール]]の[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]] (PAIGC) を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった。当初カブラルは穏健な独立運動を構想していたが、1959年8月3日にビサウで[[ストライキ]]を起こした港湾労働者が[[ポルトガル軍]]によって多数殺害された{{仮リンク|ピジギチ虐殺|en|Pidjiguiti Massacre}}以降は方針を変え、農村を根拠地にした武装[[ゲリラ]]闘争による独立を目指した。
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=== ギニアビサウ内戦 ===
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[[1998年]]のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーである{{仮リンク|アンスマネ・マネ|en|Ansumane Mané}}派の軍との間で激しい{{仮リンク|ギニアビサウ内戦|en|Bissau-Guinean Civil War}}が勃発した。内戦によって避難民30万人が[[ビサウ]]に流入するなど社会、経済は混乱し、[[1999年]][[5月7日]]に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。
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== 政治 ==
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<!-- {{main|ギニアビサウの政治}} -->
ギニアビサウは[[共和制]]をとる立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1984年]][[5月16日]]制定され、その後数回の改正を経たもの。
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== 地方行政区分 ==
{{Main|ギニアビサウの行政区画}}
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ギニアビサウの地方行政区分は8州 (regiõe) と1自治区 (sector autónomo) からなる。
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== 地理 ==
[[ファイル:Guinea_bissau_sm03.png|
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[[熱帯]]にある小国であり、いくつかの河川が流れる大陸部と島嶼部([[ビジャゴ諸島]])からなる。高い山は無く、国内の最高地点の標高は310mである。内陸部は[[サバナ (地理)|サバンナ]]であり、沿岸部は沼沢地のところが多い。雨季とサハラ砂漠からの[[ハルマッタン]]による暑く乾燥した乾季がある。
157行目:
== 経済 ==
{{main|ギニアビサウの経済}}
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[[工業]]、[[鉱業]]がほぼ存在せず、[[労働力]]の8割が従事する主要産業の[[農業]]も[[米]]などの自給農業が中心で、しかも国内[[需要]]すら満たせないほど[[生産性]]が低い。[[企業家]]層がおらず、[[識字率]]も低いため、[[経済]]発展の基礎的な条件が存在していない。[[産業]]と呼べるものがほとんど無いため、世界[[後発開発途上国|最貧国]]のひとつとなっている。[[カシューナッツ]]や[[ラッカセイ|落花生]]が主な輸出品である。
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{{Clearleft}}
== 国民 ==
{{main|ギニアビサウの国民|[[:en:Demographics of Guinea-Bissau]]}}
[[
=== 民族 ===
99%をアフリカ系の諸民族が占め、{{仮リンク|バランテ人|en|Balanta people}}が30%、[[フラニ族|フラニ人]]が20%、{{仮リンク|マンジャカ人|en|Manjack people}}({{lang-pt-short|Manjacos}})が14%、[[マンディンカ族|マンディンカ人]]が13%、{{仮リンク|パペル人|en|Papel people}}が7%であり、他にも民族が存在する
=== 言語 ===
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=== 宗教 ===
宗教は、現地宗教が40%、[[イスラム教]]が50%、[[キリスト教]]が10%となっている
=== 教育 ===
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は42.4%(男性:58.1%、女性:27.4%)である<ref name=2009cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/pu.html CIA World Factbook]2009年11月29日閲覧。</ref>。植民地時代の[[1950年]]の[[非識字]]率は98.85%であった<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス 『ポルトガル3』 金七紀男訳、ほるぷ出版〈世界の教科書=歴史〉、東京、1981年11月1日、初版、163頁。</ref>。1999年にはGDPの5.2%が教育に支出された
== 文化 ==
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=== 祝祭日 ===
{| class="wikitable"
!日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考
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|[[12月20日]]||||Festa do Cordeiro||ムスリムのみ
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{{GW-stub}}
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