「ジョージ・フォアマン」の版間の差分
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[[1973年]]1月22日、37戦全勝(34KO)という戦績を引っ提げ、[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]統一ヘビー級タイトルマッチに初挑戦。29戦全勝(25KO)のチャンピオン、[[ジョー・フレージャー]]から1Rに3度、2Rにも3度のダウンを奪い、2RTKOで王座を獲得する。当時最強といわれたフレージャーを叩き潰す試合内容は「[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]の惨劇」と呼ばれる。
1973年9月1日、[[東京都|東京]]・[[日本武道館]]
=== アリ戦の敗戦と転身 ===
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[[1995年]]3月、WBAから指名された[[トニー・タッカー]]との対戦を拒否し、WBAタイトルを剥奪される。同年4月、[[アクセル・シュルツ]]を破り、IBF王座防衛とともに[[世界ボクシング連合|WBU]]世界ヘビー級タイトルを獲得。同年7月、IBFから指名されたシュルツとの再戦を拒否し、IBFタイトルも剥奪される。
[[1996年]]11月3日、[[東京ベイNKホール]]でクロウフォード・グリムスリーと対戦し
1997年11月22日、WBC世界ヘビー級王者[[レノックス・ルイス]]への挑戦権をかけて[[シャノン・ブリッグス]]と対戦し、12R判定負け。以後、リングから遠ざかるが、正式な引退表明はしていない。
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*1968年のメキシコ五輪で金メダルを獲得した時、フォアマンは[[星条旗]]の小旗を振って喜びを表した。しかし、当時のアメリカでは[[黒人差別]]への抗議活動がスポーツ分野にも及んでおり、男子200m走の表彰式では金・銅メダルの[[トミー・スミス]]と銅メダルの[[ジョン・カーロス]]が黒い手袋をつけた拳を掲げるデモンストレーション([[ブラックパワー・サリュート]])を行い、大会から追放された。フォアマンの行為は偽善愛国者と誤解され、同胞の黒人から非難されてしまった<ref>[[原功 (ボクシング)|原功]] 『ボクシング名勝負の真実 世界編』、ネコ・パブリッシング、2006年、194-195頁。</ref>。
* ボクシングで稼いだ金を更生施設の建設につぎ込むなど、社会奉仕活動を積極的に行う人柄が人々から慕われ、体と器の大きさを讃えて「'''ビッグ・ジョージ'''」という愛称を持つ<ref name="nikkeibp20090910" />。
* 最初の王者だった頃は不愛想で、周囲に殺気を放つような人物だった。引退後、宗教活動を通じて心の平穏を得ると、柔らかな表情とユーモアのあるコメントでファンに愛されるキャラクターとなった。また、100kg前後だった体重が復帰後は120kgまで増加し、頭髪も丸めていたため、外見のイメージも一変していた。
* 7人兄弟の次男(上から5番目)であるが、フォアマンのみ異父を持つ。本人はこの事実をアリ戦の敗戦後に知った。
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