「仁徳天皇」の版間の差分

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[[応神天皇]]の[[崩御]]の後、最も有力と目されていた皇位継承者の[[菟道稚郎子]](うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『[[日本書紀]]』は仁徳天皇に皇位を譲るために[[自殺]]したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
 
難波に都を定め、人家の[[竈]](かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し<ref>松原聡 『日本の経済([[図解雑学シリーズ]])』 ナツメ社、2000年、228頁。</ref>、その間は倹約のために[[宮殿]]の[[屋根]]の[[茅]]さえ葺き替えなかったと言う[[記紀]]の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風[[諡号]]もこれに由来する。
 
ただ一方で、[[記紀]]には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『[[播磨国風土記]]』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。