「天竜三郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
典拠管理の追加。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
85行目:
 
=== その後の天竜 ===
計画が失敗に終わった天竜は、共に廃業する力士と上京して出羽海へ挨拶した後、責任を取る形で廃業した。天竜の他にも11名が廃業している(17名が協会復帰)。
1941年に相撲協会に復帰し顧問に就任<ref> http://exsumo.server-shared.com/wasuretakunairikishi/wasuretakunaiichiran/tenryusaburo.html 相撲史その2</ref>。
[[星野直樹]]満州国総務長官に勧誘されて[[満州]]へ渡り、満州国武道会の常務理事・角道部委員長として相撲の普及・育成に尽力したほか、[[1938年]]には社会人主体の相撲協会と[[南満州鉄道]]主体の相撲連盟を統合した「満州角道会」を結成、さらに日本相撲協会の満州準本場所の開催や神武殿の落成に尽力した。これらの功績が認められ、[[1948年]]には[[吉田司家]]から故実門人免許が本名の「和久田 三郎」として授与されている。
 
終戦後は日本に帰国し、東京・銀座でスポーツ用品店、[[餃子]]料理店「銀座 天龍」(現存)を開業した。のちに請われて[[TBSラジオ|ラジオ東京]]の大相撲実況中継で解説者を務め、同時代の[[玉ノ海梅吉]]・[[神風正一]]と並んで人気があったが、極端な毒舌ぶりで、人気力士の[[貴ノ花利彰]]に対しても「あれは[[若乃花幹士 (初代)|兄]]の人気の上に乗っかっているだけ」と吐き捨てたほどである。それでも[[富士櫻栄守]]に関しては「あれほどの力士はいない」と終始絶賛していた。