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| notes = {{Campaignbox 第四次中東戦争}}
}}
'''第四次中東戦争'''(だいよじちゅうとうせんそう)は[[1973年]]10月に[[イスラエル]]と[[エジプト]]・[[シリア]]をはじめとする[[アラブ諸国]](以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で行われた[[戦争]]の名称。[[中東戦争]]の一つに数えられる
 
''中東戦争の全体については、[[中東戦争]]を参照''
 
== 概要 ==
[[1973年]][[10月6日]]、[[イスラエル]]における[[ユダヤ暦]]で最も神聖な日「'''[[ヨム・キプル|ヨム・キプール]]'''」(贖罪の日、{{lang-he|יום כיפור}}、{{lang-en|Yom Kippur}})に当たったこの日、6年前の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに占領された領土奪回を目的として[[エジプト]]・[[シリア]]両軍がそれぞれ[[スエズ運河]]、[[ゴラン高原]]正面に展開する[[イスラエル国防軍]](以下イスラエル軍)に対し攻撃開始した
 
「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上{{refnest|group="注"|もっとも、開戦時にイスラエル軍の[[予備役]]兵は自宅にいるか[[シナゴーグ]]で祈祷をしていたため、[[動員]]作業はむしろスムーズに進んだ<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 213.</ref>。}}、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが(イスラエル軍主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、[[10月24日]]、国際連合による停戦決議をうけ停戦成立した際、イスラエルは逆にエジプト・シリア領に侵入していた。
 
純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期とはいえ[[第一次中東戦争|第一次]]、[[第二次中東戦争|第二次]]、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は(イスラエルはアラブ側に対し負けるはずはないという)「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、逆にイスラエルに対し対等な立場に着くことができたエジプトは[[1979年]]、[[エジプト・イスラエル平和条約]]を締結、[[1982年]]にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した
 
この戦争は、[[冷戦]]期における地域紛争の中でも新しい兵器が大規模投入され、特に[[ミサイル]]兵器([[9M14 (ミサイル)|9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル]]、双方が史上初めて[[対艦ミサイル]]を使用した[[ラタキア沖海戦]]など)はめざましく、[[戦車#冷戦期 - 現代|第三世代主力戦車]]の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。
 
また、戦争中行われた[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う[[石油輸出国機構]](OPEC)の石油価格引き上げは[[オイルショック#第1次オイルショック(第1次石油ショック・第1次石油危機)|第1次オイルショック]](第1次石油危機)を引き起こし、[[日本]]をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。
 
== 名称 ==
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1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属[[駆逐艦]][[エイラート (駆逐艦)|エイラート]]がエジプト海軍の[[オーサ型ミサイル艇]]からの[[P-15 (ミサイル)|対艦ミサイル]]攻撃で撃沈された('''[[エイラート (駆逐艦)#エイラート事件|エイラート事件]]''')。
 
この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃<ref group="注">前述のように、史上初めて'''双方が'''対艦ミサイルを使用した海戦はラタキア沖海戦である。</ref>であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]](以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「'''戦争でも平和でもない'''」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「'''[[消耗戦争]]'''」を称しイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河で砲撃戦が行われたこれに対しイスラエルはエジプト本土へ空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、[[1970年]][[8月6日]]、アメリカの仲介によって停戦した
 
また同年[[9月28日]]、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後に[[ガマール・アブドゥル=ナーセル#政権末期と死|ナセルが急死]]ナセルの後継者に[[エジプト革命]]時にナセルの同志でもあった[[アンワル・アッ=サーダート]](以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが、当時知名度がナセルよりはるかに低かったサダトは世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。
 
==== ヨルダン内戦 ====
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ここにアマンの局長[[:en:Eli Zeira|エリ・ゼイラ]]少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「'''コンセプト'''」(The Concept)という理論がある。<!-- これのヘブライ語呼称は何? -->すなわち、
 
# シリアがイスラエルに対して戦争を仕掛けるにはエジプトとの同時攻撃が不可欠である
# エジプトが攻撃を決意するには第三次中東戦争の二の舞を避けるために空軍力の再建と、([[Tu-16]]や[[スカッド]]など)『攻撃的兵器』装備が必要である
# エジプトが空軍再建や『攻撃的兵器』調達を実現するのはソ連が貸与を渋っているため、[[1975年]]までかかる。
# したがってアラブ側は少なくとも1975年まで戦争を仕掛けてこない。(その時にはイスラエルの軍事力はさらに向上している)
 
1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらはすべて「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチし動員が可能、開戦2日目には反撃し第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の[[砂漠]]では[[対戦車砲]]や[[歩兵]]を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は[[諸兵科連合|歩兵・砲兵の随伴]]がなくとも単独で突破戦力として任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『[[近接航空支援|空飛ぶ砲兵]]』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。
 
だが、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのであった。
 
[[1971年]]からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め<ref group="注">サダトは1971年に「今年は決断の年である」、1973年には「軍事解決のみが残された道」と演説した。</ref>、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の[[動員|動員令]]を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、とくに1973年5月の動員は6200万[[新シェケル|イスラエルポンド]](45億円)<ref>ドロジ、『イスラエル生か死か(1)』、p5-7。</ref>という[[動員#動員の影響|経済損失]]から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。
 
また[[1972年]]5月30日の[[日本赤軍]]による[[テルアビブ空港乱射事件|ロッド空港乱射事件]]や9月5日の[[ミュンヘンオリンピック事件]]などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や[[ミュンヘンオリンピック事件#イスラエルによる報復作戦|報復作戦]]に忙殺されることとなった。
 
=== 開戦前夜(1973年9月13日 - 10月6日) ===
[[1973年]]9月13日、シリアの湾岸都市[[ラタキア]]に面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍が空戦、イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍部隊が本格的展開を始めた<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 203.</ref>。同時にスエズ運河正面では「'''タヒール(解放)23'''」(Tahir 23) 軍事演習を称しエジプト軍の大規模展開が公然と進められた。当初イスラエルはゴラン高原では空中戦の影響、スエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。
 
9月29日、[[チェコスロバキア]]・[[オーストリア]]国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せて[[ウィーン]]に向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相[[ブルーノ・クライスキー]]が[[シェーナウ]]のユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府も[[ゴルダ・メイア]]首相が直々にオーストリアまで向かうなど<ref group="注">成果はなく、メイアは「コップ一杯の水も出してくれなかった」と漏らしている。</ref>の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。
 
10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長の[[:en:David Elazar<!-- [[:ja:ダビッド・エラザール]] とリンク -->|ダビット・エラザール]]中将は、イスラエル軍に「'''Cレベル'''」<ref group="注">平時における最大の警戒レベルで、これが発令されたのは第三次中東戦争以来。</ref>の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった。<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 212.</ref><ref>ラビノビッチ、『ヨムキプール戦争全史』、p76-77。</ref>
 
10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した。<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p212。</ref>この報告を受け、エラザールは国防相の[[モシェ・ダヤン]]に空軍の先制攻撃<ref group="注">空軍の対空ミサイル基地掃討作戦は先制攻撃を前提として作られていた。</ref>の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令発令され<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、pp. 212-213.</ref>、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時{{refnest|group="注"|アラブ側でも作戦開始時刻は厳重に秘匿され、エジプト軍では師団長クラスでさえ作戦開始時刻を知らされたのは6日当日であった。<ref>高井、『第四次中東戦争』、p63。</ref><ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 210.</ref>}}、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃開始された
 
イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「'''奇襲'''」を受けることとなった。
 
== 戦争の推移 ==
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{{Main|{{仮リンク|ゴラン高原の戦い (第四次中東戦争)|he|קרבות הבלימה והתקפת הנגד הישראלית ברמת הגולן|label=ゴラン高原の戦い}}|[[ナファク基地攻防戦]]|[[涙の谷]]|{{仮リンク|第一次ヘルモン山攻防戦|en|First Battle of Mount Hermon}}}}
 
ゴラン高原方面では13時58分からシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。<ref name="高井47">高井「ゴランの激戦」P47。</ref>対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団([[第36機甲師団 (イスラエル国防軍)|第36機甲師団]])、戦車数にしてシリア軍1,220輌{{Refnest|group="注"|各歩兵師団の戦車定数は240輌であり、戦車師団は250輌である。<ref>高井「ゴランの激戦」P41 - 42</ref>}}対イスラエル軍177輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P30.</ref>である
 
ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の[[第7機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第7機甲旅団]]は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方待機していた第3戦車師団や精鋭の{{仮リンク|共和国親衛隊 (シリア軍)|en|Republican Guard (Syria)<!-- [[:ja:共和国防衛隊 (シリア)]] とリンク -->|label=共和国親衛旅団|FIXME=1}}の増援を得つつ、昼夜通しをわず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した<ref name="Dunstan59">Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P59.</ref>が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団陣地を突破することはできず、なかった。シリア軍は戦車260と他車輌500<ref name="Dunstan59" />を失う。
 
これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍{{仮リンク|第188機甲旅団 (イスラエル国防軍)|en|188th Armored Brigade|label=第188機甲旅団}}(戦車定数72輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P11.</ref>)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上てシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65Km<ref name="高井47" />だが、うち40Kmを第188機甲旅団が担当した<ref>高井「ゴランの激戦」P56。</ref>)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対し第188機甲旅団の稼働戦車は15輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P43.</ref>にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校9割が死傷した<ref>葛原「機甲戦の理論と歴史」P150。</ref>第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入しゴラン南部でイスラエル軍防衛線を突破した
 
6日夜、これらシリア軍とイスラエル本土間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、{{仮リンク|ツビ・グリンゴールド|en|Zvika Greengold|label=ツビ(ツビカ)・グリンゴールド}}中尉指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走る{{仮リンク|トランス・アラビアン・パイプライン|en|Trans-Arabian Pipeline|label=TAPライン}}上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団指揮所があった{{仮リンク|キャンプ・ヤーコブ|he|מחנה יצחק|label=ナファク基地}}に向かとする第5歩兵師団戦車を一晩中延滞させることに成功した。
 
だが7日正午にシリア軍第1戦車師団T-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長[[ラファエル・エイタン]]少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。
 
この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団({{仮リンク|第210地域師団 (イスラエル国防軍)|en|366th Division (IDF)|label=第210}}、 {{仮リンク|第319予備役機甲師団 (イスラエル国防軍)|he|עוצבת המפץ|label=第146予備役機甲師団}})がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。
 
これに前後し10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂イスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、[[ゴラニ旅団 (イスラエル国防軍)|ゴラニ歩兵旅団]]による奪回作戦を試みたが、失敗した。
 
==== シナイ半島方面 ====
[[ファイル:1973 sinai war maps.jpg|thumb|250px|シナイ半島方面(南部戦線)の戦況。<br>左:1973年10月6日 - 13日、右:同14 - 15日<br>赤:エジプト軍、青:イスラエル軍]]
シナイ半島方面ではエジプト軍5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍拠点群、通称「[[バーレブ・ライン]]」に対し攻撃をかけた。
イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって
次々と壊滅させられた。空軍機も同様、低空・高空対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。
 
ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲師団(以下第162師団)と第143予備役機甲師団(以下第143師団)が到着、8日にはこれら2個師団による反撃が行われたが、第162師団は6日同様エジプト軍の対戦車兵器によって大損害をこうむり、第143師団は戦場を迷走したためほとんど戦闘に参加できず、イスラエル軍の反撃は再び失敗した
 
一方、エジプト軍は「スエズ運河東岸に橋頭保を築いて停戦を待ち、シナイ半島は戦後交渉によって奪還する」という作戦の第一段階が完了したため、むやみな攻撃をかけず橋頭保強化につとめ、戦況は膠着状態となった。
==== その他 ====
イスラエル軍はゴラン高原、シナイ半島で二正面作戦を強要され、一時はゴラン高原、シナイ半島の放棄、そして「'''第三神殿の滅亡'''」<ref group="注">「第三神殿」とは[[ソロモン王]]、[[ヘロデ大王]]の建てた神殿に次ぐ神殿、すなわち現代のイスラエルを意味する[[隠語]]である。</ref>も考えられた。
このためイスラエルは'''[[イスラエルの大量破壊兵器|核兵器使用]]'''真剣に検討され、実際に[[ディモナ]]核施設では航空機用核弾頭13発用意された。しかし、戦況がやや好転したため、使用の機会は免れることとなった。<ref>高井、『ゴランの激戦』、p64</ref>
 
=== イスラエルの反撃(1973年10月11日 - 10月17日) ===
==== ゴラン高原方面 ====
10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上の進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、'''ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦する'''との警告がアメリカよりもたらされたからとされている。
 
==== シナイ半島方面 ====
[[File:Battle at Chinese Farm - Flickr - The Central Intelligence Agency.jpg|thumb|250px|「中国農場」近郊で遺棄されたイスラエル軍の[[マガフ]]戦車と[[M113]]兵員輸送車。]]
8日以降戦況は膠着し、大規模戦闘はなかったものの、シリアから自国の苦戦を救うためシナイ半島での攻勢がエジプトに要請された。このためエジプト軍は全面攻勢を開始、10月14日、イスラエル軍との間に大規模な戦車戦が発生した。「ミサイルの傘」を出たエジプト軍は待ち伏せするイスラエル地上軍だけでなく空軍からも苛烈な反撃を受け、エジプト軍が約200輌の戦車を喪失、攻撃は失敗した。この戦闘の勝利によってイスラエル軍はシナイ半島でも戦闘の主導権を取り戻し、スエズ運河の逆渡河作戦を進めることとなった。
 
15日、イスラエル軍の逆渡河作戦「'''ガゼル作戦'''」(Operation Gazelle)が開始された。<ref group="注">「'''ストロングハート作戦'''」(Operation Strong Heart)とする資料もある。</ref>イスラエル軍は渡河点近郊の農業試験場、通称「'''中国農場'''」などでエジプト軍の強固な抵抗にあったものの、16日未明には空挺旅団と戦車旅団が逆渡河に成功、17日には第162師団主力が渡河、対空ミサイル基地を掃討しながら「アフリカへの進撃」を開始した。
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''[[:en:Operation Nickel Grass|ニッケル・グラス作戦]]も参照のこと。''
 
イスラエル・アラブ両陣営は激戦により、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗、それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカ・ソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながる一大事となるため、ソ連は9日からエジプト・シリア両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1000輌含む約1.5 - 6.4万トン<ref>松村、『新・戦争学』、p161。</ref><ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p496。</ref>の軍需物資を供給。これら物資が損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエル・アラブ両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。
 
エジプト・シリア以外のアラブ諸国も戦争に協力し、[[イラク]]・[[ヨルダン]]はそれぞれ各個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣し、また[[モロッコ]]・[[サウジアラビア]]・[[スーダン]]の部隊がゴラン高原に、シナイ半島では[[アルジェリア]]・[[リビア]]・[[モロッコ]]・PLO・[[クウェート]]・[[チュニジア]]<ref>Hussain, Hamid (November 2002) "Opinion: The Fourth round — A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War" Defence Journal.</ref><ref>O'Ballance, Edgar (November 1996). No Victor, No Vanquished: the Yom Kippur War. Presidio Press. ISBN 978-0-89141-615-9. p. 122.</ref>の部隊が戦闘に参加。パキスタンの軍<ref>Bidanda M. Chengappa (1 January 2004). Pakistan: Islamisation Army And Foreign Policy. APH Publishing. p. 42. ISBN 978-81-7648-548-7. </ref><ref>Simon Dunstan (20 April 2003). The Yom Kippur War 1973 (2): The Sinai. Osprey Publishing. p. 39. ISBN 978-1-84176-221-0.</ref><ref>P. R. Kumaraswamy (11 January 2013). Revisiting the Yom Kippur War. Routledge. p. 75. ISBN 978-1-136-32895-4. </ref>やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され<ref>[http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/73_War.html " The Yom Kippur War"]. Jewishvirtuallibrary.org. October 6, 1973.</ref>、[[キューバ]]も戦車やヘリコプターなどの隊をシリアに送り<ref>Perez, Cuba, Between Reform and Revolution, pp. 377–379. Gott, Cuba, A New History, p. 280</ref><ref>Bourne, Peter G. (1986). Fidel: A Biography of Fidel Castro. New York: Dodd, Mead & Company</ref>、[[北朝鮮]]のパイロットはエジプトの空軍基地の防空任務に就いていた。<ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p471。</ref>