「パーヴォ・ヌルミ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m ウィキ文法修正: 間違った画像オプション 空のオプションを削除する:"" lintId=18946522
→‎引退後の生活: 平仮名では接続詞の「又は」と勘違いしそうなので。
122行目:
 
[[ファイル:Olympiatuli 1952.jpg|thumb|alt=キャプションを参照|[[オリンピック聖火]]を点火するヌルミ、1952年。]]
1952年、ヌルミは元フィンランド陸連会長のフィンランド首相[[ウルホ・ケッコネン]]に説得されて、[[1952年ヘルシンキオリンピック]]で[[オリンピック聖火]]を[[ヘルシンキ・オリンピックスタジアム]]に持ち込む{{仮リンク|最終聖火ランナーの一覧|en|List of people who have lit the Olympic Cauldron|label=最終聖火ランナー}}を務めた<ref name="HS 2000" />。観客はヌルミが現れたことに驚き、[[スポーツ・イラストレイテッド]]は「彼の名高い大または群衆にとって間違いようもなく、彼の姿が現れたときはスタジアムに音の波が響き始まり、続いて咆哮に、やがて雷へと大きくなっていった。フィンランドチームは整列していたが、ヌルミの姿を見るや興奮した学生のように競走路の縁に走った」と報じた<ref name="Sports Illustrated">{{Cite web | first=William | last=Johnson | work=[[スポーツ・イラストレイテッド|Sports Illustrated]] | title=After The Golden Moment | date=17 July 1972 |url=http://sportsillustrated.cnn.com/vault/article/magazine/MAG1086332/index.htm | accessdate=23 August 2012}}</ref>。聖火台を点火した後、ヌルミは聖火を憧れのコーレマイネンに渡し、コーレマイネンは塔にあるかがり火を点火した{{sfn|Sears|2001|p=216}}。ヌルミは取り消された[[1940年東京オリンピック]]ではフィンランドの金メダル獲得者50人を率いる予定だった<ref>{{Cite news | newspaper={{仮リンク|ミルワウキー・ジャーナル・センティナル|en|Milwaukee Journal Sentinel|label=The Milwaukee Journal}} | title=Finns to Pay Tribute to Nurmi at Olympics | date=28 February 1939 | page=6 |url=https://news.google.com/newspapers?id=GhgaAAAAIBAJ&sjid=MCIEAAAAIBAJ&pg=2087,270837&dq=paavo-nurmi&hl=en | accessdate=23 August 2012}}</ref>。
 
ヌルミは運動選手として名声を得すぎ、商人として名声を得なさすぎたと考えたが<ref name="Finnish Literature Society" />、彼の競争に対する興味が薄れることはなかった{{sfn|Raevuori|1997|p=382}}。彼は数度競走路に戻って走ったほどだった。1946年、彼は[[ギリシャ内戦]]の被害者のために募金して、昔からのライバルである[[エドヴィン・ヴィーデ]]とともにストックホルムで競走した<ref>{{Cite book | first=Paavo | last=Karikko | first2=Mauno | last2=Koski | year=1975 | title=Yksin aikaa vastaan: Paavo Nurmen elämäkerta | publisher=Weilin & Göös | page=310 | isbn=978-9513514075 | language=fi}}</ref>。ヌルミの最後の競走は{{仮リンク|ニューヨーク陸上競技クラブ|en|New York Athletic Club}}の招待で1966年2月18日に[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で行われた競走である{{sfn|Raevuori|1997|p=377}}。1962年、ヌルミは福祉国家が長距離競走で不利であると予想、「国の生活水準が高いほど、努力と困難が必要な種目における結果が悪くなる。私は新世代に警告したい:『この快適な生活で怠惰になるな。新しい交通手段に運動の本能を消滅されるな。短距離でも自動車で行く若者が多すぎる。』」と述べた<ref>{{Cite journal | last1=Phillips | first1=Bob | year=2005 | title=Then Snell came past like a runaway horse | journal=BMC News | volume=4 |issue=2 | page=37 | publisher=The British Milers' Club |url=http://www.britishmilersclub.com/bmcnews/2005autumn.pdf | accessdate=13 September 2012}}</ref>。1966年、ヌルミはスポーツクラブのゲスト300人を前に演説、フィンランドの長距離走の状態を批判して、スポーツ官僚をただの売名家や旅行者だとしかり、運動選手に何かを成し遂げるために全てをなげうつよう求めた{{sfn|Raevuori|1997|pp=380-381}}。その後、ヌルミは1970年代にフィンランドの陸上競技が回復の兆しを見せたのを見届けることができた。この年、[[ラッセ・ビレン]]と{{仮リンク|ペッカ・ヴァサラ|en|Pekka Vasala}}が[[1972年ミュンヘンオリンピック]]で金メダルを獲得した{{sfn|Raevuori|1997|p=382}}。彼はビレンの走姿を褒め、ヴァサラには[[キプチョゲ・ケイノ]]に注目するよう助言した<ref name="Finnish Literature Society" />。