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[[ファイル:吉益東洞4620.JPG|thumb|200px|吉益東洞宅蹟、京都市中京区]]
'''吉益 東洞''' ('''よします とうどう'''、[[元禄]]15年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1702年]][[3月3日]])- [[安永]]2年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]([[1773年]][[11月9日]]))は、[[安芸国]]山口町(現在の[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]]橋本町付近)出身の[[漢方]]医で、[[古方派]]を代表する医であり、日本近代[[医学]]中興の祖である。名は為則、通称は周助。はじめ東庵と号し、のち東洞。江戸幕府将軍家[[奥医師]]にもなり、門弟500人以上を輩出した。