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'''日本の脚気史'''(にほんのかっけし)では、[[日本]]([[大日本帝国]])で[[脚気]]の流行が国家的問題となった[[明治時代]]から、脚気死亡者数が1千人を下回った[[1950年]]代後半までを主として、脚気の原因を巡る医学界の混乱とその収束、軍事上の要請が特効薬の開発に波及した経緯などを記述する。
 
== 概説 ==
日本で脚気がいつから発生していたのかは定かではないが、『[[日本書紀]]』に同じ症状の病の記述があり、[[元禄]]年間には米を精製する習慣が広まり、特に[[江戸]]で多く「江戸患い」と呼ばれ、経験的に他の精白されていない穀物を食べた。[[明治時代]]には、[[1870年]](明治3年)には翌年にかけて脚気が流行。明治末までに6,500人から15,085人死亡したとみられる。
 
海軍軍医の[[高木兼寛]]はイギリスの[[根拠に基づく医療]]に依拠してタンパク質が原因だと仮定して、洋食、麦食を試み、1884年(明治17年)の導入により1883年の23.1%の発症率を2年で1%未満に激減させた。理論は誤っていたものの疫学の[[エビデンス|科学的根拠]]は得られていたということである。だが、当時医学の主流派は理論を優先するドイツ医学を模範としいたため、高木は批判され、また予防成績も次第に落ち様々な原因が言われ、[[胚芽米]]も導入された。陸軍は対抗し白米を規則とする日本食を採用、『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、死者総計の約2割、約4000人が脚気が原因であった。陸軍はその後も脚気の惨害に見舞われた。農学者の[[鈴木梅太郎]]は、1910年(明治43年)に動物を白米で飼育すると脚気様の症状が出るが、米糠、麦、玄米を与えると快復することを報告。翌年、糠中の有効成分を濃縮しオリザニンとして販売されたが、医界は受け入れなかった。伝染病説と中毒説が支配的で、栄養欠乏説は受け入れられなかった。1912年にポーランドの[[カシミール・フンク|カジュミシェ・フンク]]がビタミンという概念を提唱。国産の栄養説を俗説とさげずんだが、外来の栄養説を後追いし、陸軍主導の調査会には、真因を追及する能力はなかったとも指摘される<ref>松田(1990)、P.118-120</ref>。陸軍が白米を止め、麦3割の麦飯を採用したのは、海軍から遅れること30年の大正2年だった<ref name="江戸わずらい"/>。
 
[[大正]]以降、[[チアミン|ビタミンB1]](チアミン)を含まない精米された[[白米]]が普及するとともに安価な移入米が増加し、[[副食]]を十分に摂らなかったため、脚気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も<ref group="注">1910年に[[鈴木梅太郎]]が抽出したオリザニン(樹脂状の塊で、その後、結晶化に成功)は、[[ニコチン酸]]を含む不純化合物であり、その純粋単離に成功したのが1931年。</ref>、多くの患者と死亡者を出し、[[結核]]とならび'''脚気は二大国民病'''といわれた。ちなみに統計上の脚気死亡者数は、[[1923年]](大正12年)の26,796人がピークであり、[[1915年]](大正4年)から[[日中戦争]]の拡大と移入米の減少<ref>1934年の朝鮮半島での旱魃(かんばつ)、1938年末からの朝鮮米・台湾米の移入減少(現地での米消費の拡大)。野本京子、352頁。</ref>によって食糧事情が悪化する[[1938年]](昭和13年)まで年間1万人~2万人で推移した(翌1939年12月1日、白米禁止と7分つき米の強制<ref>「米穀搗精(とうせい)制限令」(需給調整の手段として、酒造米など加工米の制限のほか、つき減りを少なく(精白度を低く)し、食用米(粗精米)を増やす意図)が公布された。{{harvnb|山下政三|2008|p=460}}。野本京子、352頁。</ref>)。ようやく1千人を下回ったのは、[[アリナミン]]とその類似品が社会に浸透する1950年代後半のことであった<ref group="注">[[1950年]](昭和25年)3,968人、[[1955年]](昭和30年)1,126人、[[1960年]](昭和35年)350人、[[1965年]](昭和40年)92人</ref>。
 
[[1975年]](昭和50年)頃から[[ジャンクフード]]の普及により、脚気が再発してきた<ref name="急性多発性神経炎"/><ref name="急性多発性神経炎続"/><ref name="現代江戸の病"/>。1997年(平成)には、死亡を含む重症例が相次ぎ、厚生省は[[高カロリー輸液]]の点滴の際にビタミンB1を投与するという通達を出した<ref name="点滴"/>。[[アルコール依存症]]患者にも多い。
 
==明治時代まで==
日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない<ref>この項目の出典は、{{harvnb|山下政三|2008|pp=2-11,460}}<!-- 西暦表記の目的は、山下の著作3冊の区別にある。--></ref>。しかし、『[[日本書紀]]』と『[[続日本紀]]』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されている。日本では[[平安時代]]以降、[[京都]]の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している。
 
[[江戸時代]]に入ると、[[玄米]]に代わって[[白米]]を食べる習慣が広まり、上層階級のほか、武士と[[町人]]にも脚気が流行した。[[征夷大将軍|将軍]]をはじめとした上層武士に脚気[[患]]が多かった。13代将軍[[徳川家定]]は、脚気が原因で死亡したとも言われている。とくに[[江戸]]では、[[元禄]]年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方に広がり、また[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]に町人にも脚気が流行した。
 
江戸を離れると快復に向かうこともあり、「江戸患い」と呼ばれた。領地では貧しく白米を食することのできなかった地方武士も、江戸勤番では体面上白米を主食としたため、江戸在住期間が長引くとこの病いに罹る例が多かった。
 
江戸時代中期以降、江戸で蕎麦が流行した。江戸で[[うどん]]よりも[[蕎麦]]が主流となった背景には、「江戸わずらい」<ref name="注">[[浅田次郎]]『パリわずらい江戸わずらい』([[小学館]] [[2014年]] p.138-143)。</ref>と呼ばれた脚気を、[[ビタミンB1]]を多く含む蕎麦を食べることで防止できたことにもよる<ref>[http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/04_soba.html そば]日本文化いろは事典</ref>。[[漢方医学]]では療法として用いられていた。経験的に[[ソバ|蕎麦]]や[[麦飯]]や[[小豆]]を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。
 
== 問題状況 ==
[[明治時代]]には、[[1870年]](明治3年)とその翌年から脚気が流行った。東京など都市部、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[鎮台]]所在地の港町で流行し、上層階級よりも中・下層階級に多発し死亡率が高かった。『人口動態統計』(1899年開始)と『死因統計』(1906年開始)によれば、明治末までの国民の脚気死亡者数は、最小6,500人(1900年)、最大15,085人(1909年)であった。ただし当時は、乳児脚気の知識があまりなかったため、乳児の脚気死亡が大幅に見落とされており、毎年1万人~3万人が死亡していたと推測されている。
 
[[明治]]になると[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人の職業病として国家的問題になった。明治6年に公布された[[徴兵令]]の目玉は、1日6合(江戸時代の「一人扶持」は1日5合だった)の[[白米]]を食べさせるという特典であったため、軍人に罹患者が多くなった。建軍期には[[大日本帝国海軍|海軍]]が[[イギリス]]、陸軍は[[フランス]]、後に[[ドイツ帝国|ドイツ]]を範としたため、海軍は[[栄養]]由来説、陸軍はドイツの[[細菌]]説を取っていた。後に、陸軍軍医総監[[石黒忠悳]]と次の[[森鴎外]]が海軍の米食由来説を批判したため、陸軍は脚気の被害を多く受けたといわれ、[[鈴木梅太郎]]の[[チアミン|オリザニン]]発見、さらに[[ビタミン]]の発見までこの状況が続いた。陸軍が「白米6合」を止め、麦3割の[[麦飯]]兵食を採用したのは、海軍から遅れること30年の[[大正]]2年だった<ref name="江戸わずらい">[[浅田次郎]]『パリわずらい江戸わずらい』[[小学館]]、2014年。pp.138-143.</ref>。
 
=== 明治期の主な脚気原因説 ===
脚気の原因が分からなかった明治期、脚気の流行に拍車が掛かり(都市部の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。脚気の原因が分からなかった理由として、色々な症状がある上に病気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい食物を摂っている者が冒されて一見粗食を摂っている者が冒されないこと、[[医学|西洋医学]]に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。
 
明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の[[遠田澄庵]])、「伝染病説」([[エルヴィン・フォン・ベルツ]]など)、「中毒説」([[三浦守治]]など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。ただし<!--、正式な医学研究に基づいておらず、←それは他の説も同じ-->既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」<ref>脚気菌が見つからないものの、脚気が都市に集中すること(地域性)、兵営や寄宿舎や監獄など大勢が群がって暮らす所で発生が増えること、夏に流行して冬に流行しないこと(季節性)、若者が罹りやすいこと、また死体解剖で神経の病変が細菌とその毒で冒される多発神経炎に似ていること等を根拠に、伝染病説が主張された。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=21-22}}。</ref>は、たちまち医界で受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたった[[イギリス]]人医師の[[ウィリアム・アンダーソン (医師)|ウィリアム・アンダーソン]]([[1873(1873]]、明治6年10月-[[1880-1880]]、明治13年1月に在日)も伝染病説を信じていた<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=34}}。</ref>。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤りであり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原因である。
 
=== 海軍 ===
==== 海軍の兵食改革 ====
[[画像:Kanehiro_Takaki.JPG|200px|thumb|高木兼寛]]
ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが、[[大日本帝国海軍]][[軍医]]の[[高木兼寛]]であった<ref>この項目の第一段落は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=27-44}}。</ref>。[[臨床]]主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が[[下士官]]以下の兵員や囚人に多く、[[士官]]に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的には[[たんぱく質]]と[[炭水化物]]の割合の違いによることを発見した。
 
その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折<!--(うよきょくせつ)--><!-- 多くの人が読みやすいように、難読的な熟語にふりがなを振るとともに、カタカナを平仮名にし、また動詞を平仮名にする等できるだけ漢字を少なくした。←wiki上で「紆余曲折」「反駁」「隠蔽」などにふりがなを振っている例が他にあるのか。また漢字を使わなすぎることは、かえって可読性を損ねる。←「他にあるのか」と詰問調のように指摘されても、「Wikipedia:表記ガイド:5.2まぜ書き、5.5読み仮名の要否」に基づいて元に戻した。なお、平仮名表記については、見解の相違←表記ガイドにsmallは使われていませんが必要ですか?← 一般に書籍では5号活字のフリガナとして、より小さな7号活字(ルビ)が使われていること、また、さまんま氏がそうであったようにフリガナを不要と考える読者の存在も想定したこと等により、フリガナを必要とする読者が注視すれば読めるようにsmall記号を使っています。-->を経て[[1884年]](明治17年)1月15日、[[海軍省#歴代幹部|海軍卿]]名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食を招いていた)が一部見直され、洋食への切り替えが図られた(標準指定金給時代[[1884年]]明治17年-[[1889年]]明治22年)<ref group="注">標準指定金給のポイントは、下士官以下の食料について定則の金額で現品を購入して給与すること、もう一つは食品の種類が規定されたことである。そうした変更により、海軍省は各艦の食事をコントロールしやすくなった。</ref>。
 
同年2月3日、[[大日本帝国海軍]]の[[練習艦]]「[[筑波 (コルベット)|筑波]]」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験を兼ねて[[品川 (東京都)|品川]]沖から出航し、287日間の遠洋航海を終えて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。[[海軍省]]では、「[[根拠に基づく医療]]」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革を進めた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、および死亡数が[[1883年]](明治16年)1,236人、23.1%、49人、[[1884年]](明治17年)718、718人、12.7%、8人、[[1885年]](明治18年)41、41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した<ref name="shirasaki">白崎 昭一郎『森 鴎外も一つの実像』吉川弘文館、1998年。ISBN 4-642-05439-1</ref>。この航海実験は日本の[[疫学]]研究の走りであり、それゆえ高木は'''日本の疫学の父'''とも呼ばれる<ref name="kumamoto">[http://kumadai-publich.com/topics/post_10.html 脚気対策の功労者 高木兼寛] 熊本大学大学院生命科学研究部環境社会学講座公衆衛生学分野</ref>。ただし、下士官以下に[[パン]]が極めて不評であったため、翌[[1885年]](明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。
 
==== 高木説への批判 ====
[[1885年]](明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先する[[ドイツ]]医学を範としていたため、高木の脚気原因説([[タンパク質|たんぱく質]]の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象を与えた。そのため、[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月25日には、同誌に[[村田豊作]](東京大学[[生理学]][[助手 (教育)|助手]])の反論が掲載され、とくに同年7月の[[大沢謙二]](東京大学生理学[[教授]])による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は、机上の空論であることが実証された。
 
また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病に罹りやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回にわたって公表したものの、[[1886年]](明治19年)2月の公表を最後に学理的に反証しないまま沈黙した。のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐したように<ref>[[大沢謙二]]は、反駁する演説を行った翌年に高木に対して、「高木さん先年はどうも失礼しました。ああいう演説はしましたが、その後家の書生から、病気に罹ったので麦飯をやってみたらすっかり調子がよくなった、という話を聞きました。私など試験管の先ばかり見てものを言うものですから・・・どうもこれで賢くなりました」と述べたという。(「高木兼寛伝」(1965)東京慈恵医科大学創立八十五周年記念事業委員会編、P.118)</ref>、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得られなかった。
 
高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べると脚気が減少する」という [[疫学]]上の[[エビデンス]]は得られていた。その後も海軍軍医部は、[[日本の脚気史#日清戦争での陸軍脚気大流行|後述の通り]]日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、[[石神亨]]と[[斎藤有記]]の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判したものの、麦飯優秀説について学問上の疑問点を挙げて反論されると両軍医とも沈黙したなど、ドイツコッホ研究所帰りの森林太郎([[森鴎外]])など病原菌説を唱える陸軍医たちの疑問を払拭するに至らなかった(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)<ref>山下は、「兵食問題や脚気問題を精密に検討するには、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識が不可欠である。それらの知識なくしては、問題の内容を正確に把握できるはずはない。核心を正しく論評できるはずはない。錯誤におちいるのは必然である。」と指摘した。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=471-472}}</ref>。
 
==== 麦食縮小以降、脚気が増加する海軍 ====
高木の思いに反して兵員には、「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、[[1890年]](明治23年)2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され([[1945(1945]]昭和20年まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ないし麦飯)の混用となった。[[1917年]](大正6年)以降、海軍では麦の割合が2割5分まで低下した<ref>「海軍糧食条例」が公布された1890年と1924年について海軍航海食の一日量を比較すると、乾パンが半減(100匁→45匁)したのに対し、白米が倍増(50匁(ただし週6日の給与)→90匁)した。{{Harvnb|山下政三|2008|p=442}}。</ref>。
 
学問上の疑問点は解消できなかったものの、[[日露戦争]]時の海軍は、87名の脚気患者が発生しただけであり、後述する陸軍の脚気惨害と対照的であった。当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっている」<ref>海陸生(匿名)「最早脚気問題にあらず」『医海時報』1907年6月29日〔山下による要旨の一部〕。{{Harvnb|山下政三|2008|p=326}}。</ref>とされるような状況であった。ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%~70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気の入院率は数%)<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=439,462-463}}</ref>。その後、高木とその後任者たちのような[[薩摩藩|薩摩]]閥のイギリス医学系軍医ではなく、[[栃木県]]出身で[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]卒の医学博士[[本多忠夫]]が海軍省[[海軍省|医務局長]]になった[[1915年]](大正4年)12月以後、'''海軍の脚気発生率が急に上昇した'''。
 
脚気患者の増加を受けて海軍省では、[[1921年]](大正10年)に「兵食研究調査委員会」を設置し、[[1930年]](昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない麦飯で麦の比率を上げることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、苦心の結果、[[島薗順次郎]]が奨励していた[[胚芽米]]に着目した。[[1927年]](昭和2年)から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は[[1933年]](昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=445-446}}。</ref>。島薗の胚芽米の提唱には、脚気に対する胚芽米の研究を行っていた[[香川昇三]]と[[香川綾]]らの研究が役に立っていた<ref name="naid130004399760">{{Cite journal |和書|author1=福場博保 |date=1978 |title=胚芽米について |journal=調理科学 |volume=11 |issue=1 |pages=51-54 |naid=130004399760 |doi=10.11402/cookeryscience1968.11.1_51 |url=http://dx.doi.org/10.11402/cookeryscience1968.11.1_51}}</ref>。しかし、胚芽米を作る機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、現場で研究の成果が十分に現れず、脚気患者数は、[[1928年]](昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した[[1937年]](昭和12年)から[[1941年]](昭和16年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に[[太平洋戦争]]が勃発した[[1941年]](昭和16年)は3,079人(うち入院605人)であった<ref>1941年の海軍は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。{{Harvnb|山下政三|2008|p=460}}</ref>)。また、現場で炊事を行う[[主計科]]では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコ」(船乗りのジャーゴンで「海面に let's go」の意という))ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛けた。
 
戦前、「海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型まで統計に上るようになった事」<ref>[[神林美治]]「海軍に於ける脚気の状況」『医事衛生』1937年7月。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=443}}。</ref>(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)と指摘されていた。また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)<ref group="注">1890年に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、とくに1900年以後の改正兵食に問題があった。1917年には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給与された現金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。</ref>、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、たんぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰が崩れたこと<ref>「海軍の脚気は根絶した」という先入観により、脚気を見落としていた可能性がある。たとえば、昭和40年代後半、神経学会で原因不明の「急性特発性神経炎」の症例が報告され、「新病あらわる」という騒ぎになった。しかし、よく調べると、単なる脚気であった。[[神経学|神経内科]]の一流の専門家が脚気と気づかなかったのは、すでに「脚気はない」という先入観があったため、とされる。<!-- 文末の出典範囲と重複するため、読点で区切られた文節単位に出典を明記していない。ちなみに出典は、山下、443-444頁。--></ref>との指摘もある<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=441-444}}。</ref>。
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海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、[[日清戦争]]時に[[勅令]]で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した([[1894年]]、明治27年7月31日)<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=116-117}}。</ref>。ただし、[[大本営]]陸軍部で[[大本営#組織|野戦衛生長官]]を務める[[石黒忠悳]](陸軍省[[陸軍省#医務局|医務局長]])の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=117}}。</ref>。
 
戦時兵食の内容が決められたものの、[[日清戦争#動員(戦時編成)と軍夫の大規模雇用|軍の輸送能力が低いこともあり]]、しばしば兵站が滞った。とくに緒戦の[[朝鮮半島]]では、食料の現地調達と補給に苦しみ、[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]では[[野津道貫]][[第5師団 (日本軍)|第五師団]]長以下が黒粟などを口にする状況であった。[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]後、[[1894年]](明治27年)10月下旬から[[遼東半島]]に上陸した[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]の一部で脚気患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られている中、事態を憂慮した[[土岐頼徳]]第二軍軍医部長が麦飯給与の[[稟議書|稟議]]<!--←項目が存在しリンクされている単語-->を提出した([[1895年]]、明治28年2月15日)。しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上[[海運]]すこぶる頻繁なる等、種々の困難[[陸続]]発起し、ついに実行の運(はこび)に至らさりしは、最も遺憾とする所なり」<ref group="注">原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述</ref>と、結局のところ麦飯は給与されなかった。その困難の一つは、[[森鴎外#軍医として|森林太郎(鴎外)]]第二軍[[兵站|兵站部]]軍医部長が反対したとされる(もっとも上記の通り勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限が与えられた<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=128-129}}。</ref>)。
 
[[下関条約]](日清講和条約)調印後の[[乙未戦争|台湾平定(乙未戦争)]]では、高温という脚気が発生しやすい条件の下、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=117-119}}。</ref>。しかも、[[1895年]](明治28年)9月18日付けの『[[時事新報]]』で、[[石神亨]]海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、[[斎藤有記]]海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた<ref>ただし、11月23日付けの『[[東京医事新誌]]』で高田亀(陸軍軍医の匿名)により、学問上の疑問点を挙げて反論されると、石神も斎藤も沈黙した(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)</ref>。しかし、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」<ref>原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述</ref>という石黒の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=125-126}}。</ref>。そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し([[1896(1896]](明治29年)11月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍[[軍医総監]]・序列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された([[軍法会議]]などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。
 
===== 脚気惨害 =====
陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人 (72.3%) が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。ちなみに、'''総病死者20,159人'''で、うち脚気以外の病死者が16,095人 (79.8%) であった(陸軍省医務局編『[[明治二十七八年役陸軍衛生事蹟]]』<ref>刊行されたのは日露戦争後の1907年(明治40年)であった。陸軍各部隊の衛生実況は、戦後の早い時期に提出されていた。しかし、肝心の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』(巻頭に「部外秘密」のマル秘ふせん)は、1896年12月に編纂が開始されたものの、完成したのが10年以上たった日露戦争後の1907年3月末であり、刊行が大幅に遅れた。ひとえに「脚気」編のおくれであり、その編纂委員の任命は、1903年7月と、同書の編纂開始から6年半もの空白があった。それも「脚気」編を担当したのは、日清戦争の終結年に医学部を卒業した軍医であった。{{Harvnb|山下政三|2008|p=246}}。</ref>)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)<ref>『明治二十七八年日清戦争史』第八巻・付録第121減耗人員階級別一覧。1894年7月25日~1895年11月18日の値。ただし内地勤務者は、5月13日まで。</ref>など、[http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2044.html さまざまな数字がある]。多数の病死者が出たように、[[日清戦争#日本軍の損害|衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病がはやり]]、また[[広島大本営]]で[[参謀総長]]の[[有栖川宮熾仁親王]]が[[腸チフス]]を発症したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も安全とはいえなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年'''40,241人'''、1896年908人と推移し、とりわけ1895年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った)。とくに[[台湾]]では、暑い季節に[[ゲリラ]]戦に巻き込まれたため、伝染病が蔓延し、[[1895年]](明治28年)10月28日、[[近衛師団]]長の[[北白川宮能久親王]]が[[マラリア]]で陣没し<ref>政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。</ref>、[[山根信成]]近衛第二旅団長も戦病死したほどであった<ref>[[藤田嗣章]]台湾[[兵站]]部軍医部長(マラリアに罹って後送された[[伍堂卓爾]]の後任)は、「我軍を悩ましたのは[[亜熱帯]]地の暑中行軍もさることながら、実に各種[[伝染病]]の流行にあった。……やはりこれ〔マラリア〕にかかる者が多く、加ふるに[[コレラ]]病の猖獗(しょうけつ。悪いものが猛威をふるう意)がありチフス・[[赤痢]]も流行したので、戦闘死傷者に比すると病死者が多かった」と記述した。近衛師団の正式報告書(1896年5月)の病名欄に「脚気」がないように、藤田も流行していた脚気を明記していない。{{Harv|山下政三|2008|pp=163-164}}。また、脚気に触れていない一次資料は、ほかにもある。たとえば、1895年5月末から台湾に上陸した近衛師団の某大隊は、「台湾熱と下痢病および戦死あるいは負傷のため」、東京出発時の1,600人から600人前後まで減少した(「谷田三等軍医の書簡」『奥羽日日新聞』1895年9月26日)。大谷 (2006)、164-165頁。当時、メディアへの締め付けの厳しかった東京と異なり、仙台や福岡の地方新聞には、従軍記者の記事だけでなく、将兵と軍夫の手紙により、戦地での厳しい生活や[[旅順虐殺事件#第二段階(11月22日以降の三日ないしは四日間)|旅順虐殺事件]]など生々しい情報が掲載されていた。</ref>。なお、台湾での惨状を伝える[[報道]]等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っている中、隠蔽したい出来事であった。
 
上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定を併せて41,431人(脚気以外を含む総患者284,526人。[[日清戦争#日本軍の損害|凍傷も少なくなかった]])、'''脚気死亡者4,064人'''(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人<ref>朝鮮は357日間、清国は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。{{Harv|山下政三|2008|p=114}}。</ref>)であった。このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ[[山県有朋]]や薩摩閥のトップ[[大山巌]]、また[[児玉源太郎]]などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく<ref>台湾の内情を知る立場の台湾勤務の軍医部長は、異例の人事を経験した者が多い。[[石阪惟寛]](陸軍[[軍医総監]]・序列第二位)・[[土岐頼徳]](同・序列第三位)・[[伍堂卓爾]](マラリアに罹る)の3人は帰国後、休職。藤田嗣章(息子の一人が画家の[[藤田嗣治]])は、7年間も台湾で勤務した。とりわけ、石黒と大喧嘩をした土岐は、1896年5月10日に帰京(即日休職)し、休職のまま5年後の、1901年5月10日に予備役に編入された。しかも、1907年に刊行された『陸軍衛生事蹟』(石黒が初代編纂委員長)の「台湾編」は、土岐が[[台湾総督府]]陸軍局軍医部長をつとめていたこと(1896年1月16日より。離任日不明だが同年5月10日に帰京)が記載されていない。また、土岐のもとで4ヶ月ほど一緒に働いた藤田(当時、台湾兵站軍医部長)の文章も、土岐に触れることなく、石阪が去ったあと藤田が代務したとある。要するに[[陸軍省#医務局|陸軍軍医部]]では、土岐の台湾勤務それ自体が無かったことにされたのである。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=165-167}}。</ref>、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。
 
==== 義和団の乱での派遣部隊脚気流行 ====
トップの陸軍省医務局長が[[小池正直]]に替わっていた[[1900年]](明治33年)、[[義和団の乱]](北清事変)が勃発し、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]](戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された<ref group="注">1900年6月に先遣隊が、7月に第5師団が派遣された。乱の鎮圧後、同年10月に派遣部隊の半分が、翌1901年7月に残り半分が凱旋した。</ref>。そのときも、首都[[北京]]を巡る局地戦が主で輸送に支障が少なかったにもかかわらず、[[前田政四郎]](同師団軍医部長)が麦飯の給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで'''2,351人の脚気患者'''がでた<ref>北京の前田軍医部長は、医務局に対して「日本米の支給で脚気患者を出し、中国米の支給で脚気を著しく抑えた。脚気に効果があるとされる麦飯の支給を希望しているが、麦の追送が未着である」等の報告をした。その前田報告は、『軍医学会雑誌』(1901年5月)に掲載された。なお、前田報告にある中国米は、精白度の低い粗精米と推測される。{{Harv|山下政三|2008|pp=227-229}}。</ref>。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。
 
[[1901年]](明治34年)5月31日、凱旋した第5師団に代わって[[支那駐屯軍|清国駐屯軍]]が置かれたとき([[北京議定書]]に基づき編成)、小池が同軍病院長に与えた訓示<ref>訓示(1901年10月):「脚気は病原いまだ明ならざるをもって、その予防の方法もいまだ審(つまびら)かならず。ただ経験上麦飯を効あるとなすのみ。第5師団軍医部の報告中には支那米もまたその効ありとなせり。脚気に発病には、時因地因の関係あることは、統計上疑ふべからずをもって、合理的にその効否を判するには、同一地において同時に麦飯・支那米・日本米を約同数の兵員に分給し、もってその成績を徴すべし。これ我軍隊の脚気予防上新事実を挙げ得るの益あればなり。」(注:原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述)</ref>は、上記の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=228}}なお小池医務局長は、「麦飯有効を信じていた」との説がある反面、それを疑問視する説がある。後者の理由として、3つのことが挙げられる。第一に本文の通り、[[義和団の乱]]で前田軍医部長が求めた麦の追送が行われなかったこと(「麦飯有効を信じていた」ならば、補給路が確保されている中、現地の派遣部隊が求める麦を送らない理由がない)。第二に本文の通り、小池が[[支那駐屯軍|清国駐屯軍]]病院長に与えた訓示(かつて石黒が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容)。第三に、軍医部長会議で「米麦混食ハ脚気予防上有効ト認定シ」麦飯給与の時期と割合について諮詢(しじゅん:問い諮ること。相談)した(1900年3月)という話が文献でよく引用されるものの、同年の関係資料に諮詢記事が見つかっていないこと(当然のように各引用者は、ポイントとなる諮詢の結果を記述できていない)。なお『[[爵位|男爵]][[小池正直]]伝』では、「米麦混食ハ脚気予防上有効ト認定シ」のくだりは、1899年9月の[[桂太郎]]陸軍大臣に提出した次記官文書として引用された(ちなみに桂は、第二代[[台湾総督]]として陸軍の脚気大流行を知っており、また麦飯推進派の頭領的存在)。その桂大臣への報告が1899年9月8日付けの文書である。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=225-228}}。</ref>。なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』に続けて投稿([[1901(1901]](明治34年)5月と7月に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因という認識を示した。しかし、翌[[1902年]](明治35年)4月の『明治三十三年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』には、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣を務め、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]に異動した<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=227-230,246}}</ref>。
 
==== 日露戦争での陸軍脚気惨害 ====
[[日露戦争]]のときも、[[陸軍大臣]]が麦飯推進派の[[寺内正毅]]であり(ちなみに陸軍出身の[[桂太郎]]内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部長がいたにもかかわらず、[[大本営]]陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として[[輸送]]の制約が挙げられ、陸軍は兵員と[[兵器]][[弾薬]]などを送るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった([[兵站#数値例|近代地上戦での想定補給量の一例]])<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=329}}。</ref>。さらに「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い<ref>海軍でも麦飯は不人気で、「兵員の銀飯(白米飯)に対する憧れは非常なもので、本日は銀飯だと聞くと、兵員一同万歳を三唱し君ケ代を斉唱する、等と半ば冗談にいわれたことがある。……。また、米麦食の米の方の消費が多くなって麦が余り、それを夜こっそり海に捨てていたこともある。」とされるような内情であった。瀬間喬『日本海軍食生活史話』</ref>、輸送が困難などの反対論がつよく」<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=306}}。</ref>、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民憧れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|p=289}}。</ref>。
 
しかし戦地では、[[1904年]](明治37年)5月頃から脚気が増え始め、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯が給与され<ref group="注">5月に1万石の挽割麦を送ったという経理長官部の記録があるとされるが、その大半が変敗したという。</ref>、翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られ始めると、陸軍衛生部さらに大本営の野戦衛生長官で[[満州軍 (日本軍)#満州軍総兵站監部人事|満州軍]]総兵站監部の総軍医部長、[[小池正直]](陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿が続いた<ref>脚気惨害で非難を浴びた陸軍の軍医たちは、戦後、以下の記録を残した(出典:{{Harvnb|山下政三|2008|pp=306-307}})。_1)「日露戦役の初期においても、また米麦混食の要を主張したものが少なくなかった。[[第1軍 (日本軍)|第一軍]]軍医部長[[谷口謙]]は、37年2月脚気予防のため麦飯(米麦混食)の給与に関し意見を上申し、野戦衛生長官はこれに賛し、[[大本営]]会議においてこれを協議したが、戦地において主食を複雑ならしむるは、実施上の困難が少なくないといふので、純米食を主食にあて、混食は他日に譲ることとなつた」(西村文雄『軍医の観たる日露戦争』)。_2)「芳賀〔[[芳賀栄次郎|栄次郎]]第5師団〕軍医部長は、出征前師団会議の席上で、従来の戦役に脚気患者多発の例にしるし、師団においても米麦混食をもって主食とせられたしとの意見を開陳したが、反対説が多くてついに実施せられなかった。/反対説の理由とするところは、米麦混食は補給上精米一種とするよりも煩瑣(はんさ)なこと、また味の良否論があったが、これと同様のことは第5師団のみならず他師団にもあったようだ」(陸軍軍医団『日露戦役戦陣夜話』)。_3)『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』の編纂委員である一等軍医・[[田村俊次]]の談:「当始より麦飯支給の実施については度々会議に上り当局者もすこぶる苦心したが、結局如上(じょじょう。上述の意)の困難から「輸送の途(みち)なほ少しく好況になるまで、精米と重焼麺麹(めんぼう。パンの意)を供給し、時機を見計ひて挽割麦を送らん」との議に是非なく一決して、37年4月までは一粒の麦も送らなかった。しかるに出征軍にはようやく脚気患者を発生し、……、先ず同年5月に挽割麦を一万石を送り、じご出来得る限りの手段をつくして若干つつ追送したが、果たして輸送路の困難なりし結果、大半は変敗して到底全軍に普及せしむることは出来なかった。」</ref>。
 
陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・[[西村文雄]]編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人 (4.6%)、戦傷153,623人 (15.4%)、戦地入院251,185人 (25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる<ref>本文の2資料は、主に「入院後病床日誌」に基づくため、実際の戦病者はもっと多いとされる。</ref>)。戦地入院のうち、脚気が110,751人 (44.1%) を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)を併せると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した(なお[[兵種]]別に戦地入院の脚気発生率をみると、[[歩兵]]1.88%、[[騎兵]]0.98%、[[砲兵]]1.46%、[[工兵]]1.96%、[[輜重兵]]1.83%、非戦闘員の補助輸卒5.32%であり、「軍夫」と呼ばれていた補助輸卒の数値が著しく高い([[1904(1904]](明治37年)22月~翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人に次いで30,559人と多く、過酷な条件の下任務に就いていた)<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=332-333}}</ref>。'''入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡'''したと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。
 
== 原因解明と治療薬開発 ==
=== 陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置 ===
[[画像:Ogai Mori.jpg|150px|thumb|森林太郎<br>{{sub|小説家としての'''森鴎外'''で著名}}]]
陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げ続けて孤軍奮闘する中(ときには[[マッチポンプ]]さえ火に油を注ぐ様にして陸海軍の対立をあおった)、[[1908年]](明治41年)、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された<ref>事務所は1908年6月27日陸軍省告示第20号で陸軍省内に設置。『官報』第7500号、明治41年6月27日。</ref>(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日[[陸軍大臣]]官邸で発足式)<ref>この項目のうち第一・第二段落の出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=339-357,461}}。</ref>。当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない[[森鴎外#軍医として|森林太郎]](ただし日清戦争のとき、石黒[[大本営#組織|野戦衛生長官]]に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。その臨時脚気病調査会は、[[文部省]](学術研究を所管)と[[内務省 (日本)|内務省]](衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、多額の陸軍費がつぎ込まれた。
[[画像:Kitasato Shibasaburo.jpg|150px|thumb|北里柴三郎]]
発足当初の調査会は、会長(森・医務局長)と幹事([[大西亀次郎]]医務局衛生課長)、委員17名、臨時委員2名([[青山胤通]]東京帝国大学医科大学長、[[北里柴三郎]]伝染病研究所長)の計21名で構成された。委員17名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参加したほか<ref>1908年1月18日、海軍軍医の[[本多忠夫]](1913年に海軍[[軍医総監]]、1915年に海軍省[[海軍省#医務局|医務局長]])は、『医海時報』の掲載文で「脚気調査会の設置は、早くからわれわれの切望してきたところである。……調査会がいまだに設立されない主な理由は、……まったく調査会の予算を編成する所管が未決なためである。思うに脚気調査会は[[文部科学|文部省]]に属するのを妥当と認めるが、利害関係の粗密によって便宜上これを他省に所管せしめてもよい。」と記述した。{{Harvnb|山下政三|2008|p=344}}。</ref>、[[東京大学医科学研究所|伝染病研究所]]3名、陸軍軍医6名、[[京都大学|京都帝大]]1名、東京帝大3名、医師2名(日本医史学の大家[[富士川游]]・医学博士[[岡田栄吉]])であった。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、定期的に発表された。
 
==== 臨時脚気病調査会の構成 ====
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=== ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査 ===
[[画像:RobertKoch cropped.jpg|200px|thumb|ロベルト・コッホ]]
調査会の発足式が開かれる直前の[[1908年]](明治41年)6月22日、森(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学者[[ロベルト・コッホ]](1905年[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞)と[[帝国ホテル]]で会っていた<ref>この項目の出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=364-371}}。</ref>。脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリベリを研究せよ等の研究法を助言された<ref>このときコッホは、海軍で食物による脚気根絶が試みられていることは知っており、「原因の研究は後回しにして、診断法を確立するのが先である。天然痘なども原因は明らかではないが、診断法は確立していて、脚気もそれにならうべきである」と説いている(吉村, 1990, 下巻 P.235)。</ref>。調査会の発足後、さっそくバタビア([[ジャカルタ]])付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった<ref>かつて[[オランダ]]の医師[[クリスティアーン・エイクマン|エイクマン]]は、[[アチェ戦争]]([[スマトラ島]])のベリベリ研究で、未知のニワトリの脚気を発見し(1889年7月)、ニワトリの脚気は白米食によって起こること、ニワトリの脚気とヒトのベリベリとは同じものであることを発表していた(1897年にドイツ語のエイクマン論文が医学雑誌に掲載され、大反響を呼ぶとともに、糠の中の未知有効成分を取り出そうとする抽出研究が盛んになった)。しかし日本では1897年、1899年、1905年とエイクマンの追試が行われたものの、データの解釈がエイクマンと異なり、なぜか肝心の糠の有効試験が行われていなかった。</ref>。
 
1908年、[[都築甚之助]](陸軍軍医)・[[宮本叔]](東京帝大)・[[柴山五郎作]](伝染病研究所)の3委員が派遣<ref>1908年8月19日付けで発令。『官報』第7546号、明治41年8月20日。</ref>されたものの(9月27日~11月28日まで滞在)、現地では白米を止めて熟米と[[リョクトウ|緑豆]]などを食べるようになっており、また1903年の[[アチェ戦争]]([[スマトラ島]])終結もあってベリベリの入院患者がほとんどいなかった。それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)が見つからず、食物原因説に傾くこともなく、歯切れの悪い曖昧な原因論を報告した。ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)と共に伝染病説を支持し続け、都築が栄養欠乏説に転換した。
153 ⟶ 152行目:
==== 都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発 ====
[[画像:Christiaan Eijkman.jpg|200px|thumb|クリスティアーン・エイクマン]]
「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった<ref>この項目の出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=374-378}}。</ref>。都築は、動物脚気の発生実験([[クリスティアーン・エイクマン|エイクマン]]の追試)を行い、[[1910年]](明治43年)3月の調査会と4月の日本医学会で発表した。動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいることを公表したのである。また[[1911年]](明治44年)、都築と[[志賀潔]]([[1910(1910]](明治43年)8、8月委員となる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効否試験を行った。その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値ではなかったものの、試験を重ねる価値は十分あった。しかし、都築が12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったため、米糠の効否試験は1年で終わった。
 
都築は、翌[[1911年]](明治44年)4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮<ref>都築は、冒頭部で「報告せんとするに当たり、謹(つつしみ)て特別の庇護を与へられたる臨時脚気病調査会長、森閣下の厚意を鳴謝す」と述べた(注:原文のカタカナをひらがなに置きかえて記述。なお当時、森のような[[将官]]は閣下と呼ばれていた){{Harv|山下政三|2008|pp=376}}。</ref>によって調査会でも発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのようにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり理解を示していたとの見解もある<!--「事実」として書くなら客観的証拠を示した引用を--><ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=376}}。</ref>。一方で森は、脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを否定、細菌原因説に固執していたとの見解もある<ref>岡崎桂一郎の「日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考」(1912) に寄せた序文で、森は「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している。[[#志田2009|志田(2009)]]、145–153頁</ref>)。その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するとともに、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した卓越した業績であった。さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないものだった。
 
「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究に励み、ついにその製剤を治療薬として販売した([[1911(1911]]、明治44年4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月、注射液を販売)。有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)のアンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。
 
==== 鈴木梅太郎のオリザニン発見 ====
農学者の[[鈴木梅太郎]]は、[[1910年]](明治43年)6月14日の東京化学会で、「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した<ref>この項目の出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=379-381,457}}</ref>。ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米は色々な成分が欠乏していることを認めた。糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出を目指して努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌[[1911年]](明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。とくに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタミンの概念をはっきり提示していた。ただし、糠の有効成分を濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶には至らなかった。[[1912年]](明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、[[ピクリン酸]]を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=379-381}}。</ref>。
 
しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられなかった(8年後の[[1919年]]大正8年、ようやく[[島薗順次郎]]が初めてオリザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、上記のオリザニン結晶も[[ニコチン酸]]をふくむ不純化合物で、純粋単離に成功するのが[[1931年]](昭和6年)であった。その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後のことであり、翌[[1932年]](昭和7年)、脚気病研究会で[[香川昇三]]が「オリザニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。
 
=== 医学界の混乱 ===
==== 臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査 ====
都築に刺激されて調査会でも、[[1910年]](明治43年)3月-10月と[[1911年]](明治44年)6月~翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた<ref>この項目の出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=382-385}}。</ref>。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差があり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気発生の関係について明確な結論を得られなかった。他方、外国など各所の脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。とくに東南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし'''国内では、依然として伝染病説と中毒説の勢いが強く、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれられず、脚気の原因説を巡る混乱と葛藤が続いた。'''
 
==== 混乱した要因 ====
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後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分([[チアミン|ビタミンB1]])の溶解性にあった。当時は、糠の不純物を取り除いて有効成分を純化するため、アルコールが使われていた。しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復に向かうことが多かった)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。
 
第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根強く信じられていたにもかかわらず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否定されることなく、[[1914年]](大正3年)に内科学の権威である[[青山胤通]]が『脚気病論』を著し<ref>本書で青山は、脚気が栄養不給によるものとするエイクマンの説を紹介し、「高木兼寛氏の『脚気米食論』はこれにもとづくものなり」と書いている。実際にはエイクマンの提唱は高木の業績より15年後のことであった。青山は「ぬかで脚気が治るなら、馬の小便でも治る」とも公言していた。松田(1990)、P.112-117。</ref>、[[三浦謹之助]]のドイツ語論文「脚気」が掲載され、[[林春雄]]が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張した。もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医界で受け入れられ、その後も根強い支持があった。当時の東京帝大では、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学([[長与又郎]]・[[緒方知三郎]])など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。
 
第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン([[遠山椿吉]])、銀皮エキス([[遠城兵造]])、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてが不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが上記の通り[[1931年]](昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オリザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。
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==== 欧米のビタミン学の影響 ====
[[画像:Casimir Funk 01.jpg|200px|thumb|カジュミシェ・フンク]]
国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミン学が興隆しつつあった。[[カシミール・フンク|カジュミシェ・フンク]]は[[1912年]]2月に「ビタミン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、[[1914年]](大正3年)に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『[[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|イギリス医学雑誌]]』で紹介され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本でフンクの新概念が世界の医界で定着した。
 
'''結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた'''。[[1917年]](大正6年)、[[田沢鐐二]](東京帝大、臨時委員)・[[入沢達吉]](東京帝大・内科学教授、[[1923年]](大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変説<ref>田沢鐐二(臨時委員)は、もともと強硬な無効説派であったが、1916年5月29日に欧州留学を終えて帰国していた。その田沢は、翌1917年9月に調査会で、10月に東京医学会総会で精糠エキスを「有効」と認定する報告をした(連名報告者の筆頭が[[入沢達吉]]教授)。もっとも、その田沢に対し、長く批判を浴びてきた有効説派の[[遠山椿吉]]が「前年、林(春雄)教授指導実験の際は無効なりし。今は入沢教授の下には有効なりしとは、その原因いずれに在るや」と質問をした。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=396-398}}</ref>。[[1918年]](大正7年)、[[隈川宗雄]](東京帝大・生化学教授、委員)がビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の[[須藤憲三]]委員が10月16日に代理報告)。[[1919年]](大正8年)、[[島薗順次郎]](同年9月、臨時委員となる)が日本食に脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱導。[[1921年]](大正10年)、[[大森憲太]]([[慶應義塾大学|慶應大]])と[[田口勝太]](慶應大)が別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違いないと主張した。[[1921年]](大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。
 
==== 臨時脚気病調査会による確定 ====
[[1922年]](大正11年)10月28日、秋の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミンに関するものであった。翌[[1923年]](大正12年)3月3日の第28回総会では、脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加わったもの」なのかに絞られていた。そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予算2万円のうち8千円が使われることになった。[[1924年]](大正13年)4月8日の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌[[1925年]](大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定した<ref>調査会の最終報告に対し、[[日本の脚気史#都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発|脚気研究に大きな足跡をのこした都築甚之助]]は、次の感想を記した。「要するに、臨時脚気病調査会委員諸氏の多年の精励によって、今日のビタミンB全盛時代を生み、これを新研究会〔まもなく設立される脚気病研究会のこと〕に伝えることができて、臨時脚気病調査会もよく使命を全う(まっとう)することができた。ここでもっとも喜ぶべき事実は、この臨時脚気病調査会の在期中にビタミンB製剤が現れて、実際上の脚気予防と治療とには、もはや困らぬ時代が生まれ出たことである」(「脚気病調査会最終の報告を読みて」『日本之医学会』1925年7月1日号)。{{Harvnb|山下政三|2008|pp=429}}。</ref>。
 
[[1924年]](大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であることから、翌[[1925年]](大正14年)6月3日、いつもの通り陸軍省第一会議室で報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があった。その席上、入沢(東京帝大)と[[北島多一]](慶應大、調査会発足時からの最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる(元委員がすべて参加)。
 
なお、16年間に委員として39名、臨時委員として13名が参加した調査会では、上述の通り第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となるなど、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある一方<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=461}}。</ref>、調査会のためにビタミン欠乏説の確定が遅れたとする見解もある<ref>板倉(1988)。さらに坂内(2001)は、初代の森委員長が最後まで細菌説に固執したとし({{Harvnb|山下政三|2008}}|は、晩年の森委員長は調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかったとする。421-422頁)、1908年7月4日の調査会(第1回会合)で[[寺内正毅]]陸軍大臣が麦飯の効用を強く示唆したにもかかわらず、次の会合で示された活動方針から麦飯を含む栄養の問題が排除され、また調査会発足時の委員である[[都築甚之助]]が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された等の見解を示した上で、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と論じた。坂内正『鴎外最大の悲劇』、2001年、211-231頁。なお、坂内 (2001) の「活動方針から……栄養の問題が排除された」との見解に関し、調査会の調査方針では、微生物学など「学」のついた研究分野までしか明記されておらず、活動方針の第二条に列記された研究分野は、微生物学、医化学、病理学・病理解剖学、臨床医学、流行病学であり、たしかに栄養学がない({{Harvnb|山下政三|2008|pp=362}})。もっとも、[[栄養学#栄養学の創設|医化学を修めた佐伯矩によって日本で栄養学が芽生えた]]のは、調査会が設立されてから6年後の1914年であった。なお初期の調査会では、[[日本の脚気史#臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査|本文の通り]]、1910年3月-10月と1911年6月~翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた。_2)「都築が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された」との坂内(2001)の見解に対し、山下 (2008) は「辞任」との見解を示した(375頁)。なお都築は、[[日本の脚気史#臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査|本文の通り]]、1910年3月の調査会で「脚気ノ動物試験第一回報告」をしており、同年12月9日に委員を辞めた。翌春、東京医学会総会で未知栄養障害説を発表(脚気ノ動物試験第二回報告)しており、のちに森委員長の配慮によって調査会でも発表した。その後も、製糠剤アンチベリベリンの開発とその効否試験など、精力的に研究を続けた。</ref>。松田 (1990) は調査会のありかたを「国産の栄養説に対してあれほど『俗論』とさげすんだ<ref>「イギリス流の偏屈学者」(森林太郎)、「1、2の偏信者」(石黒 忠悳)、「高木君の例にならって、イヌの糞何匁、みそ何匁、木炭何匁」(大沢謙二)、「ぬかで脚気が治るなら、馬の小便でも治る」(青山胤通)など(吉村 (1994) 下巻 P. 176-177、松田(1990)、P.98-104、117)</ref>彼らが、今度は外来の栄養説に対してはこれを肯定し、西欧のビタミン研究のあとを追うことになった」と指摘、「この調査会には、はじめから脚気の本当の病因を追及する意欲も能力もなかった」と総括している<ref>松田(1990)、P.118-120</ref>。
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=== 治療・予防法の確立へ ===
==== 脚気病研究会の創設と中絶 ====
[[1925年]](大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止を受けて創設された<ref>この段落は出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=457-461}}</ref>。翌[[1926年]](大正15年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研究報告がなされた。とくに東京帝大・島薗内科の[[香川昇三]]は、[[1932年]](昭和7年)に[[鈴木梅太郎]]の「オリザニン純粋結晶」<ref group="注">鈴木梅太郎が抽出した当初のオリザニン結晶はニコチン酸を含む不純化合物であり、その純粋単離に成功したのは香川報告の前年に当たる1931年。</ref>が脚気に特効があることを報告した。さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した([[1927(1927]](昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られていた[[島薗順次郎]]は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、[[1934年]](昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面を拓いた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策に絞られてきた。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が[[1937年]](昭和12年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学に向けられた。そして脚気病研究会は、以後、中絶された。
 
なお、'''ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病'''であった(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人~2万人)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられる。
 
==== ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発 ====
[[太平洋戦争]]末期の[[1944年]](昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思い通りにならない中、突然「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した<ref>本項目は出典は、{{Harvnb|山下政三|2008|pp=458-461}}</ref>。会員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての[[日本の脚気史#原因解明と治療薬開発|臨時脚気病調査会]]([[陸軍大臣]]所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じられることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」([[1954(1954]]、昭和29年以降)として続く。
 
[[1950年]](昭和25年)12月2日の研究会で、[[京都大学]]衛生学の[[藤原元典]]は、[[ニンニク]]とビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質が出来ると報告した。さらに藤原は、[[武田薬品工業]]研究部と提携して研究を進め、[[1952年]](昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分[[アリシン]]がB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリチアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1に戻り、さらに腸管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した。B1誘導体アリチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、その新物質の本体を解明するため、総力を挙げて研究が行われた。
 
また、藤原と提携して研究を進める[[武田薬品工業]]は、アリチアミンの製剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発を依頼されたこと)。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する製品開発に努めた結果、ついに成功したのである。[[1954年]](昭和29年)3月、アリチアミンの内服薬「[[アリナミン]]錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果を示した。その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく歓迎され、また同業他社を大いに刺激した。そして[[1968年]](昭和43年)までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。'''アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治'''されることとなった。国民の脚気死亡者は、[[1950年]](昭和25年)3,968人、[[1955年]](昭和30年)1,126人、[[1960年]](昭和35年)350人、[[1965年]](昭和40年)92人と減少したのである<ref>{{Harvnb|山下政三|2008|pp=459-460}}</ref>。
 
{{See also|栄養学#主食論争}}
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[[1975年]](昭和50年)には脚気が再燃し<ref name="急性多発性神経炎">高橋和郎 「[http://ci.nii.ac.jp/naid/40002994995/ 心拡大,高度浮腫を伴った急性多発性神経炎]」『日本内科学会雑誌』Vol.64、 No.10、1975年10月、1140-1152頁。</ref><ref name="急性多発性神経炎続">高橋和郎、北川達也「[http://ci.nii.ac.jp/naid/40002994942/ 心拡大,高度浮腫を伴った急性多発性神経炎-続-その疫学ならびに成因としてのビタミンB1欠乏症]」『日本内科学会雑誌』Vol.65、 No.3、1976年3月、256-262頁。</ref>、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といった、ビタミンの少ない[[ジャンクフード]]があることが分かった<ref name="現代江戸の病">住田実『現代によみがえった「江戸の病」の食生活』東山書房、1995年。</ref>。
 
1975年(昭和50年)には、[[高カロリー輸液]]の[[点滴]]の際に「ビタミンB1欠乏症」が報告され、死亡を含む重症例が相次ぎ、1991年(平成3年)に[[厚生省]]は「緊急安全性情報」を出し調査を開始し<ref name="点滴発端">{{Cite journal |和書|author1=橋詰直孝 |date=2003-04 |title=高カロリー輸液とビタミン--ビタミンB1欠乏症を中心に |journal=診断と治療 |volume=91 |issue=4 |pages=725-733 |doi=10.11477/mf.1543101141}}</ref>、調査の結果、1997年(平成9年)には、厚生省は高カロリー輸液の点滴の際に、ビタミンB1を投与するという通達を出した<ref name="点滴">{{Cite journal |和書|author1=藤山二郎 |author2=木ノ元景子 |author3=山村修 |author4=et al. |date=2007-06-25 |title=絶食患者におけるビタミン非添加末梢静脈栄養時の血中水溶性ビタミン濃度の変化 |journal=静脈経腸栄養 |volume=22 |issue=2 |pages=181-187 |doi=10.11244/jjspen.22.181 |url=http://dx.doi.org/10.11244/jjspen.22.181}}</ref>。
 
[[2014年]][[平成]]26年)にも、高齢者が食品購入の不自由さから、副食を食べず白米のみを食す食生活により、脚気発症が報告されている<ref>桑原昌則ほか、[http://doi.org/10.11281/shinzo.46.893 ショック, 意識障害をきたした高齢者のビタミンB{{sub|1}}欠乏症 (脚気) の1症例] 心臓 Vol.46 (2014) No.7 p.893-899</ref>。
 
== トリビア ==
江戸時代に存在した俗信で「小僧は脚気の薬」と、若い男児と[[肛門性交]]をすると脚気の治癒に効果があるといわれていた。当然科学的な根拠は無いが「お住持の脚気は治り小僧は痔」といった川柳も残されている<ref>[[渡辺信一郎]]著『江戸の色道 古川柳から覗く男色の世界』、ISBN 978-4-10-603733-7 </ref>。
 
脚気に苦しんでいた[[明治天皇]]は、海軍や[[漢方医]]による食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学そのものへの不信を抱き、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたため、侍医団は天皇の[[糖尿病]]の悪化に対して有効な治療を取れなかったのではないか、ともいわれている<ref>その天皇と侍医団の確執については、遠藤正治「明治期の侍医制度と池田文書」(所収:吉田忠/深瀬泰旦 編『東と西の医療文化』(思文閣出版、2001年)に詳しい。なお当時は、糖尿病の発病メカニズムが解明されておらず、有効な療法が実用化されていなかった。</ref>。
 
明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった[[鍼灸]]医等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に[[糠]]を投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取り入れ始めた。これが効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある<ref>板倉を参照のこと。</ref>。