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「玉鋼と日本刀」を加筆。
「明治中期から大正期」の節を修正・加筆。
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その後、江戸後期になると鉧押しは[[出雲国|出雲]]を中心に盛んに行われるようになり、[[近代]]初頭にかけて最盛期を迎える<ref>[[#Tachi 2005|舘 2005]], p. 9.</ref>。[[1750年代]]には、でき上がった不均質な鉄の塊である「[[けら|鉧]](けら)」を「大ドウ<ref group="注釈" name="th01">金偏に胴。</ref>」と呼ばれる装置で破砕し、質や大きさによって細かく選別する技術が出現していた<ref>[[#Katayama, Kitamura & Takahashi 2005|片山・北村・高橋 2005]], p. 124.</ref>。
 
選別された各種の鉄のうち、鋼は「造鋼(つくりはがね)」と総称され<ref>{{Cite web|url = https://kotobank.jp/word/%E7%8E%89%E9%8B%BC-94346|title = 玉鋼(たまはがね)とは - コトバンク|publisher = [[朝日新聞社]]|accessdate = 2017-12-17}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|「造鋼」を総称ではなく、最も上質な鋼の名称とする文献もある<ref name="Tamahagane08">[[#Amada 2004|天田 2004]], p. 83.</ref>。}}、さらにそれを良質な「頃鋼(ころはがね)」、頃鋼より小振りな「目白(めじろ」、1.5[[センチメートル]] (cm) <ref>俵国一 「鋼卸し鐵法及銑卸し鐵法に就て」『鐵と鋼』第6年第6号、日本鐵鋼協會、1920年、34頁。</ref>ほどの小片である「砂味(じゃみ)」、細かく粉砕された「造粉(つくりこ)」などに分類された<ref>窪田蔵朗 『鉄の考古学』 [[雄山閣]]、1973年、281頁。</ref>。いまだ玉鋼の名は見られないものの、[[宝暦]]年間(1751 - 1763年)ごろよりの日本刀の地鉄は現代の作とほぼ同じ無地風の特徴を有しており、当時すでに同質の鋼が使用され始めたことを示している<ref name="Tamahagane08" />。
 
その後、ようやく「玉鋼」の名称が現れるのは明治時代の中期になってからである。
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== 各時代の玉鋼 ==
=== 明治中期から大正期 ===
明治期も半ばに入ると、より安価な外国製鋼材の流入によってたたら製鉄業者たちは徐々に経営が圧迫され始めていたが、粘性に乏しい輸入鉄がおもに建築材として用いられていた事に目をつけ、粘りのあるたたら鉄を[[日本軍|陸海軍]]に対して売り込むことを模索していた<ref>永田和宏 「たたら製鉄の発展形態としての銑鉄製錬炉「角炉」の構造」『鉄と鋼』Vol. 90 No. 4、日本鉄鋼協会、2004年、38頁。</ref>。
一方で、創成期の日本陸海軍においては兵器用鋼材を輸入に頼る現状を打破しようと独自に製鋼を行うことを目標に掲げ、海外に技術者を派遣して製鋼技術の習得に努めた<ref>千田武志 「海軍の兵器国産化に果たした新造兵廠(兵器製造所)の役割」『呉市海事歴史科学館研究紀要:大和ミュージアム』第4号、[[呉市海事歴史科学館]]、2010年4月、26頁。</ref>。
 
そのような中で[[大日本帝国海軍|海軍]]は明治15年([[1882年]])、[[東京]][[築地]]の海軍兵器局内に建設された製鋼所における[[るつぼ|坩堝鋼]]の製造に際し試験的にたたら製の鋼と錬鉄と鋼を使用したが、その約1[[キログラム]] (kg) 程度の小塊に砕かれた鋼が「'''玉鋼'''」の名称で呼ばれた<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], pp. 109, 115.</ref><ref>向井哲吉 「我邦に於ける坩堝製鋼の發達」『鐵と鋼』第1年第2号、日本鐵鋼協會、1915年、3–4頁。</ref>。その翌年には海軍関係者が[[島根県]]のたたら業者を現地視察し、改めてその製品や生産量について調査している<ref name="Tamahagane10">[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 110.</ref>。たたら鉄の品質の良さを認識した[[海軍省]]は、明治10年代末から20年代にかけて度々たたら製品を入荷し、管轄の各製鋼施設において原材料として使用するようになる<ref name="Tamahagane10" />。一方でたたら業者たちは陸軍に対しても鉄材を納入しており、赤字経営が続く中、徐々に[[軍需産業]]との結び付きを強めていった<ref>{{Cite web|url = http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0205.htm|title = たたらの話|publisher = [[日立金属]]|accessdate = 2017-11-29}}</ref>。ただし、この時期は陸海軍ともに坩堝製鋼や3[[トン]] (t) 級の小型[[平炉|酸性平炉]]による操業が主流であり、いまだ小規模操業の域を出ていなかった<ref name="Tamahagane10" />。
 
その後も明治22年([[1889年]])には[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[大阪砲兵工廠]]における坩堝製鋼の材料として、明治23年([[1890年]])には[[横須賀海軍工廠]]における[[平炉|酸性平炉]]による製鋼材料としてたたら鉄を納入するなど、たたら業者たちは徐々に陸海軍との結び付きを強めていった<ref>{{Cite web|url = http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0205.htm|title = たたらの話|publisher = [[日立金属]]|accessdate = 2017-11-29}}</ref>。
 
明治28年([[1895年]])に[[日清戦争]]が終結した後、それによって得た多額の賠償金をもとに大幅な軍備拡張予算が通過すると、海軍は鉄鋼材の大規模な生産に乗り出し始める<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 109.</ref>。
明治30年([[1897年]])、海軍は[[呉海軍工廠|呉兵器製造所]]内に12[[トン]] (t) の大型酸性平炉を設置するが、たたら鉄の含有不純物、特に[[リン]]の少なさに注目し<ref group="注釈">リンは鋼を脆くする性質があるが、酸性炉では脱リンのために[[塩基|アルカリ性]]である[[石灰]]を用いる事が出来ないため、リンの含有量が極めて少ないたたら鉄は非常に適した材料だった。</ref>、本格的に兵器用[[特殊鋼]]の材料として購入を開始した<ref name="Tamahagane01">[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 111.</ref>。その際、選別された[[炭素]]量0.8 - 1.8%の鋼の内で最上級の物を「頃鋼」、それよりやや炭素量の低い物を「玉鋼」と名付けた<ref>[[#Tawara 1910|俵 1910]], pp. 135–136.</ref><ref>飯高一郎 「鐵に關する最近の研究問題」『日本化學會誌』第61帙第10号、日本化學會、1940年、1075頁。</ref>{{Refnest|group="注釈"|直径15 cmほどの人間の頭大のものを「頃鋼」、6 cmほどの拳大のものを「玉鋼」というように、大きさの違いで区分していたとする説もある<ref name="Tamahagane01" /><ref>佐藤次郎 「農鍛冶における鍛造方法(第2報)-平鍬の製作工程と技術」『農業機械学会誌』第34巻第4号、農業機械学会(現:農業食料工学会)、1973年、386頁。</ref>。}}。
 
当時の[[冶金学者]]である[[俵国一]]は著書の中で次のような分析結果を示している。
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なお、「玉鋼」の語源については諸説あり、坩堝製鋼された物が[[大砲]]の[[砲弾|弾]](玉)の製造に使用されたため、という説<ref name="Tamahagane08" /><ref>{{Cite web|url = http://tetsunomichi.gr.jp/katana/|title = 鉄の道文化圏|publisher = [[雲南市]]産業観光部観光振興課|accessdate = 2017-11-29}}</ref>が存在する一方、人間の拳大に割られた鋼を「玉」と呼称していたことから派生した、という説<ref>{{Cite web|url = http://www.co-unnan.jp/brand-rekishi.php?logid=710|title = つながる!雲南チャレンジ 2017|publisher = 雲南市政策企画部政策推進課|accessdate = 2017-11-29}}</ref>もある。
 
海軍ではその後も鋼の増産に努め、[[日露戦争]]が始まる明治37年([[1904年]])ころより生産量を大きく伸ばしたが、それにともないたたら業者との原料鉄の契約量も増加してゆく。ただし、当時の[[呉海軍工廠]]に納入された鉄材のうちの多くは輸入鉄であり、対するたたら鉄の割合は全体の2割程度に過ぎなかった。また、そのころには玉鋼の契約量はすでに減少しており、鋼の売買は頃鋼が中心となっていた。<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], p. 113112.</ref>
 
日露戦争終結後の明治40年([[1907年]])、不況の到来とともにたたら業者の経営は徐々に厳しものへとなってゆく。海軍へのたたら製品の納入は経営難になりながらも続き、[[第一次世界大戦]]中には一時的に製造量が急増したが、大戦後の軍縮ムードの中で一転して急激な減少を記録し、さらに[[ワシントン海軍軍縮条約]]によって決定的打撃を受けた<ref>[[#Watanabe 2005|渡辺 2005]], pp. 114–115.</ref>
 
=== 靖国たたら ===
たたら製鉄は[[大正]]12年([[1923年]])に一旦操業を終了したが<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 123.</ref>、[[昭和]]6年([[1931年]])に[[満州事変]]が勃発するなど世間に[[軍国主義]]的、[[民族主義]]的な色彩が強まる中、[[軍刀]]用の鋼材生産のために復活が望まれるようになる。
 
それを受ける形で昭和8年([[1933年]])、財団法人日本刀鍛錬会が事業主となり「靖国たたら」として操業が再開された<ref name="Tamahagane06">[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 14.</ref>。刀の鍛錬所は靖国神社の境内に置かれ<ref>蒔田宗次 「支那事變に於ける日本刀の威力」『鐵と鋼』第24年第12号、日本鐵鋼協會、1938年、33頁。</ref>、[[島根県]][[仁多郡]][[鳥上村]]<ref group="注釈">後の仁多郡[[横田町]](現:仁多郡[[奥出雲町]])</ref>大呂に再興されたたたらが鋼材を供給する事に決まった<ref name="Tamahagane06" />。
 
その際、製品の中で最上質の鋼の名称として「玉鋼」が用いられ、さらに上から鶴、松、竹、梅の4段階に等級分けされた<ref>[[#Suzuki 2001|鈴木 2001]], p. 15.</ref>。
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一般的に、鉄は熱して赤めると急速に酸化が進むため、表面に形成された酸化膜によって鍛接ができない状態となる。それを除くのに通常は[[融剤|フラックス]]が用いられるが、玉鋼の場合、鍛錬する際に搾り出される鉄滓が鍛接面を洗い流す作用をもつため、酸化膜が鍛打によって簡単に剥がれ落ちる利点もある<ref>倉田七郎 「日本刀鍛錬法に就て」『鐵と鋼』第25年第8号、日本鐵鋼協會、1939年、46頁。</ref>。
 
一方で玉鋼を使用しない刀工も存在し、小規模たたらによる自家製鋼を行う例や、古鉄を利用する例などがある。前者の例としては[[人間国宝|国指定重要無形文化財保持者]]であった[[天田昭次]]<ref>[[#Amada 2004|天田 2004]], p. 12.</ref>を始め、真鍋純平<ref name="Tamahagane09">『世界が認めた日本刀の美 DVD BOOK』 [[宝島社]]〈宝島社DVD BOOKシリーズ〉、2016年、3分52秒–10分54秒。ISBN 9784800249630。</ref>、上田祐定<ref>{{Cite web|date = 2017-10-20|url = https://www.oricon.co.jp/article/322279/|title = 刀剣王国・岡山長船の「備前長船刀剣博物館」と「備前長船日本刀傳習所」を訪ねよう!|publisher = [[オリコン|オリコンニュース]]|accessdate = 2017-12-1925}}</ref>などが挙げられる。天田は玉鋼を「刀の地鉄が明るく冴え、刃の切れ味にも優れる」と評価しつつも、「地鉄に古刀のような変化が乏しく、深みに欠ける」として自家製鋼の可能性を模索した<ref>[[#Amada 2004|天田 2004]], pp. 192–193.</ref>。また、真鍋は「[[鎌倉期]]の相州伝のような変化のある地鉄を再現したいと追求した末、自家製鋼にたどり着いた」と語っている<ref name="Tamahagane09" />。
 
いずれにしても、日本においては法律の規制を受けるため、製作できるのは美術品として価値のある刀剣のみに限られる<ref>美術刀剣類製作承認規則(平成4年文部省令第3号)。</ref>。