削除された内容 追加された内容
オクヤマ (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
沛県の豪族で飾り気がなく直言を好む人物であった。漢の高祖[[劉邦]]も大成前は王陵を兄として仕えていたことがあった。
 
劉邦が挙兵し[[咸陽市|咸陽]]を落としたころ、王陵は数千の兵を集めて[[南陽郡|南陽]]に割拠し、劉邦に従おうとはしなかった。劉邦が[[項籍|項羽]]と戦うようになると、王陵は漢に属するようになった。項羽は王陵の母を人質にして王陵を従わせようとしたが、王陵の使者が項羽の元を訪れた際、王陵の母は「漢王(劉邦)に従うように。私のために二心を持ってはいけません」と使者に伝えさせると、自分は剣に伏して自殺した。項羽は怒ってこの母を[[釜茹で]]に処した。王陵は従属が遅く、また劉邦の宿敵[[雍歯]]と仲が良かったことから、列侯に封じられるのが遅かったが、高祖6年([[紀元前201年]])8月に安国侯(5000戸)に封じられる。
 
蕭何の後任候補として曹参らと共に挙げられたがその際に劉邦は「馬鹿正直」と評している。