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その後、[[兗州]]の[[泰山郡|泰山]]太守となった。[[初平]]2年([[191年]])、[[黄巾賊]]30万が郡の境界に侵入してきたが、応劭は郡の文官・武官を率いて賊と戦い、全部で首級数千・捕虜一万余り、輜重二千輌の戦果を挙げた。このことで賊が退却し郡内は危機を免れた。
 
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、[[曹操]]の父[[曹嵩]]が避難していた[[徐州]]の[[琅邪郡|邪]]から泰山へ入った際、応劭は兵を遣わし彼を迎えようとしたが、それまでの戦いで曹操を恨んでいた[[陶謙]]が、騎兵を送って曹嵩を攻撃させたため、応劭の兵が合流する前に郡の境界で曹嵩を死なせてしまった。応劭は曹操に殺されるのを怖れ郡を捨て、[[袁紹]]の元へ逃げた。
 
応劭は[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])に『漢官儀』を完成させて[[献帝 (漢)|献帝]]に献上した。翌年献帝の命で、応劭は袁紹の軍謀[[校尉]]となった。当時まだ[[許都|許]]に遷都したばかりで、制度や故事が多く失われていたことから、応劭は『漢官礼儀故事』を著した。許における朝廷の制度などは、多くが応劭によって立て直された。