「守邦親王」の版間の差分

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[[延慶 (日本)|延慶]]元年([[1308年]])8月、父に代わってわずか8歳で[[征夷大将軍]]に就任した。当時幕府の実権は[[執権]]の[[北条氏]](中心は[[得宗]]家)が握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった(その北条得宗家の当主である[[北条高時]]の地位すら形骸化し、真の実権は[[長崎円喜]]ら[[御内人]]が握っていた<ref>日本史史料研究会監修・[[細川重男]]編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(2015年 [[吉川弘文館]])P176</ref>)。そのため将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっておらず、[[文保]]元年([[1317年]])4月に[[内裏]](冷泉富小路殿)造営の功によって[[二品]]に昇叙されたことがわかることくらいである<ref>『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P203</ref>。
 
また、[[題目宗]]の是非を問う問答対決の命を亡き[[日蓮]]の[[六老僧]]の一人[[日朗]]([[武蔵国]]長栄山[[池上本門寺]]住職)に下している。日朗は高齢ゆえに弟子[[日印]]を出し、[[文保]]2年([[1318年]])12月3020日から翌[[元応]]元年([[1319年]])9月15日にかけて題目宗と[[日本]]仏教全[[宗派]]と法論を戦わせた([[鎌倉殿中問答]])。結果、日印は[[仏教]]全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認める。
 
元弘3年(1333年)、[[後醍醐天皇]]による倒幕運動([[元弘の乱]])が起きたが、その際後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]が発した[[令旨]]では討伐すべき対象が「[[伊豆国]][[在庁官人|在庁]][[北条時政|時政]]子孫[[北条高時|高時]]法師」とされており、守邦親王は名目上の幕府の長としての地位すら無視されていた<ref>『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P203</ref>。