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== 経歴 ==
斉のとき曹虎の下で戦功を重ねた。[[曹虎]]が[[雍州]][[刺史]]となると、義之は防閤に任じられ、馮翊戍主として出向した。曹虎が召還されると、義之は雍州に留まって[[蕭衍]]に仕えた。蕭衍が起兵すると、義之は輔国将軍・軍主の位を受け、建安王中兵参軍に任じられた。[[竟陵郡]]芊口の邸に知らせが届くと、義之は参戦して連戦連勝した。蕭衍の軍が新林に到着すると、義之は[[王茂]]の下で新亭や朱雀航で奮戦した。蕭衍の軍が[[建康 (都城)|建康城]]を占領すると、義之は直閤将軍・馬右夾轂主となった。[[天監]]元年([[502年]])、永豊県侯に封じられ、驍騎将軍の位を受けた。[[クイ郡|盱眙郡]][[太守]]として出向した。2年([[503年]])、仮節・督[[北徐州]]諸軍事・輔国将軍・北徐州刺史に転じ、鍾離に駐屯した。北魏軍が北徐州に侵入したため、義之がこれを撃破した。3年([[504年]])、冠軍将軍に進んだ。
 
4年([[505年]])、梁の[[北伐]]がおこなわれると、臨川王[[蕭宏]]が大軍を率いて洛口に布陣し、義之は北徐州の兵を率いて、前軍をつとめ、[[北魏]]の梁城を攻め落とした。5年([[506年]])、蕭衍が長期戦を嫌って撤退を命じると、梁軍はおのおの撤退をはじめた。北魏の中山王[[元英]]がそれに乗じて追撃をかけ、没馬頭を攻撃し、城内の食糧を奪って北に帰って行った。梁の識者たちは「魏軍は米を運んで北に帰ったので、再び南に向かってくることはないだろう」と考えたが、蕭衍はそうならないと予見し、鍾離城を修築させ、義之に命じて防備を固めさせた。この年の冬、元英が安楽王[[元道明]]や平東将軍[[楊大眼]]らの軍数十万を率いて、鍾離を攻撃した。鍾離城の北は[[淮水]]でへだてられていたので、北魏軍は邵陽洲の西岸に浮橋を作って、淮水をまたぐ道を通した。元英が東岸に拠り、楊大眼が西岸に拠って、城を攻撃した。鍾離の城中には3000人ほどしかおらず、義之が率いて防戦にあたった。北魏軍は車に土を載せ、兵士に土を背負わせて堀を埋め立てた。元英と楊大眼は自ら督戦して、昼夜を分かたず城を攻めたて、飛楼や衝車を設置して城壁の土を突き崩した。義之は泥で城壁の欠けたところを補ったので、衝車は城壁を破壊できなかった。義之は弓矢を適所に射て、籠城戦の危急を救った。死傷者は万を数えたが、城は陥落しなかった。