「小松政夫」の版間の差分
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福岡県[[福岡市]]瓦町(現:[[博多区]]上川端町)出身<ref>著書「のぼせもんやけん」p.14</ref>。愛称は'''親分さん'''、'''小松の親分'''(自らのコントから)。
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7人兄妹の5番目として<ref>著書「のぼせもんやけん2」p.17</ref>、[[櫛田神社]]の前及び[[クラシエホールディングス|鐘紡]]福岡工場(現:[[キャナルシティ博多]])の近くで育つ(博多の総[[鎮守]]である櫛田神社の前が自宅であることを博多の仲間たちにも自慢していたことがあった<ref name="asahi130118">[[週刊朝日]]「[[林真理子|マリコ]]のゲストコレクション」 p.102 - 106</ref>)。実父は地元の実業家で名士だったが、小松が13歳の時に病死し、以後家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた[[露天商]]の口上をよく見聞しており、[[サクラ (おとり)|サクラ]]がいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた<ref>[[朝日新聞]]『人生の贈りもの』より</ref>。
[[福岡県立福岡高等学校]]定時制課程普通科卒業。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・[[石村萬盛堂]]で働くなどして生計を支える<ref>著書「のぼせもんやけん」p.19
</ref>{{#tag:ref|同社の商品「塩豆大福」のCMに起用された際、小松がかつて同店に住み込みで働いていた旨が字幕で紹介された。以来、「塩豆大福」の
芸能界入りする前には様々な営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどし<ref>著書「のぼせもんやけん」p.95 - 98</ref>、自動車がまだ高値の花だった当時に、月22台も売ったこともあった<ref name="bp"/>。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松は[[コメディアン]]を志す。セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、セールスマン時代は初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたが、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった<ref>著書によれば、実際は多忙な植木と四六時中一緒だったため、食費も植木が出してくれるなど、ほとんどお金を使う機会自体がなく困ることはなかった。</ref>上、1週間の睡眠時間の合計が10時間しかないほど多忙なこともあったものの「全然つらくなかった」「尊敬する一流の師のそばにいて、お世話ができる。それだけで幸せでした」という<ref name="bp"/>。
なお、植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという<ref>著書「のぼせもんやけん2」p.7</ref>。<br
運転手として[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の開会式に招かれた植木を[[国立霞ヶ丘競技場|国立競技場]]に送った際には、植木の配慮で急遽小松の席も用意され、「錚々たる名士が居並ぶ中」開会式を見ることが出来た<ref name="bp"/>。
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コメディアンとしてのデビューは『[[シャボン玉ホリデー]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に活を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、'''知らない、知らない、知らなぁーい、もー!'''」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居が[[プロデューサー]]の目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという<ref>著書「のぼせもんやけん2」p.109 - 110</ref>。
また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に[[松崎真]]がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと(本名が松崎だった)小松も一緒に返事を返してしまうケースが多々あったことから「'''小'''さいほうの'''松'''崎」という意味で『小松』と呼ばれるようになりやがてメンバーやスタッフの間で定着した<ref>著書「のぼせもんやけん2」p.80 - 81</ref>。<br
なお、芸名の候補としては[[犬塚弘]]が考えた「どん・たくお」([[博多どんたく]]がヒント)や自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」もあり小松もそれなりに気に入っていたが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と一喝され却下となったという。
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付き人兼運転手を約4年間<ref>本人の記憶によれば、正確には3年10ヶ月であるという。</ref>務め、タレントに転身する際、植木からかけられた言葉は「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられた後は運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している<ref name="bp"/>。
その後、学校の担任や[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]での[[ホステス]]の会話など身近な人からヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」
正式なコンビというわけではなかったが、[[伊東四朗]]との息の合ったコンビ芸は、
また[[東八郎]]とも、植木のもとから独立して以降共演の機会がある毎に交遊を深め、後年東が東八郎劇団を立ち上げた際には「お前を副座長として迎えたい」と直々に口説き落とされ、東が逝去する当年まで下北沢・[[本多劇場]]や[[新宿コマ劇場]]での公演にて息の合った共演をみせ人気を博した。<br
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植木等は自身の代表的なギャグ「お呼びでない」について、多くのインタビューでは次のような趣旨の発言をしていた。
<blockquote>''小松が植木の付き人時代、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中に勘違いをして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「'''お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!'''」と[[アドリブ]]を放った<ref name="aoshima">[[青島幸男]] 『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃』(1988年9月、[[文藝春秋]]) ISBN 4163426205</ref>。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。''</blockquote>
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なお植木の逝去当時、小松は地方公演のため東京を留守にしており臨終には間に合わず、出発直前に植木の自宅に挨拶に出向いて本人と会ったのが最後となった。<br>それでも入院後の容態については植木の夫人から逐一電話連絡を貰っており、公演終了直後に急いで帰京して植木のもとに駆け付け、納棺に際して遺体の衣服を着替えさせるという、弟子としての最後の仕事を務め上げた。
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[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]が設立した事務所・ファインステージに所属(それ以前には[[藤村俊二]]が設立・主宰していたオフィス・オヒョイに所属していたこともある)。
現在も[[バラエティ番組]]や[[テレビドラマ]]、[[舞台]]など多方面で活躍中である。また、
地元の[[博多祇園山笠]]には、現在でもしばしば参加している。かつては出身の岡流に属していたが、岡流が途絶えた後は、知り合いの多い[[中洲流]]に参加している<ref>{{Cite web |url=http://www.asahi.com/area/fukuoka/articles/MTW20151109411440004.html|title=まちから【博多
== 主なギャグ ==
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