「牟義都国造」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 釈日本史の和訳等を 引用していますが 転載ではありません、
1行目:
'''牟義都国造'''(むげつのくにのみやつこ・むげつこくぞう)は[[美濃国]]北中部を支配した[[国造]]。牟宜都国造・身毛津国造、牟義都'''国造'''伊自牟良君などとも・牟宜都国造・身毛津国造
 
== 概要 ==
19行目:
伊自牟良君説 美濃国伊自良(現山県市旧伊自良村)を本拠 [[壬申の乱]]の功績により、領土を拡げ関市池尻に居館を移したか 後に[[美濃国]][[武儀郡]]が中心領域(概ね現在の[[岐阜県]][[関市]]・[[美濃市]])。関市池尻の[[弥勒寺跡 (関市)|弥勒寺跡]]隣接地の発掘調査により、7世紀後半の弥勒寺造営に先行する豪族居館と、奈良時代の[[郡衙]]に伴う[[正倉]]が設置されていたことが明らかになった。『[[上宮記]]』の伊自牟良を『[[和名抄]]』の山県郡出石郷に比定し、[[伊自良村]](現山県市)氏神は甘南備神社、又は県神社 甘南備神社は、同時期の王美努王を祀る。[[壬申の乱]]にて、栗隈王美努王は中立を保つが、大友皇子の反感を買い刺客[[佐伯男]]により栗隈王は殺されそうになるが、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と[[武家王]]が側にいて剣を佩き、退く気配がなかったため、恐れて断念した。大海人皇子が天武天皇になった[[壬申の乱]]の牟義都'''国造'''伊自牟良君の功績に感謝した美努王と何らかの接点があったか
 
国指定史跡 弥勒寺官衙遺跡群は、'''牟義都国造という記載も、周囲に神社も見られません。伊自牟良君には、その二つがあり、同一氏族で、[[壬申の乱]]の功績により範囲を広げた勢力、領地により、居を移したと考えれば、弥勒寺官衙遺跡群も 伊自良もムゲツ氏関連である証明が出来ると思われます。'''
国造り支配と神社は深い関係があります。無くてはならない物であったと思われます。その時代に伊自牟良君説における神社があった証拠は意味が深く、無いのは不自然と思われます。
 
=== 氏神 ===