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| サイン = Herbert Hoover signature.gif
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'''ハーバート・クラーク・フーヴァー'''('''{{lang|en|Herbert Clark Hoover}}''', [[1874年]][[8月10日]] - [[1964年]][[10月20日]])は、[[アメリカ合衆国]]の第31代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]。[[左利き]]。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
フーヴァーは[[アイオワ州]]ウェストブランチで[[クエーカー]]信者の一家に生まれた。だが彼の幼くして両の死を亡くした[[オレゴン州]][[ニューバーグ (オレゴン州)|ニューバーグ]]に転居した。
 
[[ファイル:Herbert Hoover in 1877.jpg|thumb|left|120px|幼少期(1877年)]]
[[1885年]]夏、フーヴァーは11歳のときに、おばハンナおばさんの手製のごちそうの入ったバスケットを持ち、2枚の10[[セント (通貨)|セント]]硬貨を衣服に縫い込み、[[ユニオン・パシフィック鉄道|ユニオン・パシフィック]]の列車に乗って西のオレゴン州へ向かった。アメリカ大陸の反対側で彼を待ったのはおじ医者であり教育長のジョン・ミンソーンだった。後にフーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想した。
 
フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァーいわく「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼は[[チャールズ・ディケンズ]]と[[ウォルター・スコット]]の小説に夢中になった。[[デイヴィッド・コパフィールド]]」(』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。
{{-}}
 
=== スタンフォード大学へ ===
[[1891年]]秋に[[カリフォルニア州]]パロアルトの[[スタンフォード大学]]に入学する。在学中、[[野球]]チームや[[フットボール]]チームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を集めた。
 
[[キャンパス]]の上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識もない[[学生自治会]]の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の[[負債]]を拭い去ることに成功した。
 
フーヴァーは[[地質学]]を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強をした。ブラネル教授は彼のために夏休みの間[[アーカンソー州]]の[[オザーク山脈]]で地形の[[地図]]を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、[[1899年]]に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人とも、[[スタンフォード大学]]を卒業している。
 
[[1895年]]5月、フーヴァーに知識と職業、妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りのない人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
 
=== 卒業後 ===
卒業後、フーヴァーは[[オーストラリア]]の[[鉱山]]で鉱山技師として働き始め、その後[[清|中国]]で鉱山の開発に従事した。[[1900年]][[6月]]には[[天津租界]]で[[義和団]]によって、1月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。
 
[[1907年]]から[[1912年]]にかけてフーヴァーとルーは、[[1556年]][[出版]]という最も古くに印刷された技術的な論文のうちの1つである[[ゲオルク・アグリコラ]]の論文を[[翻訳]]をし、この翻訳はアグリコラの論文では最も信頼される英語翻訳となっている。
 
[[ヘンリー・カボット・ロッジ]]と他の[[アメリカ合衆国上院|上院]][[共和党 (アメリカ)|共和党]]員の反対にもかかわらず、フーヴァーは[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]在任中の1921年、[[ロシア革命]]後の混乱により飢饉で苦しんでいるソ連や大戦後のドイツの人々に食糧支援を提供した。その結果、評論家が共産主義ロシアを助けていなかったかどうか問い合わせたとき、フーヴァーは、「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と反論した。[[ニューヨーク・タイムズ]]は「10人の最も重要な生きているアメリカ人」にフーヴァーを選んだ。
{{see also|ボリシェビキ}}
 
=== 大統領職 ===
[[1928年アメリカ合衆国大統領選挙|前年の選挙]]で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、[[1929年]]3月4日に行われた[[アメリカ合衆国大統領就任式|就任式]]の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている……」と語った。しかし、その見通しは甘すぎた。
 
既に陰りが見えていたアメリカ経済は、10月の[[世界恐慌]]で未曾有の大不況に突入フーヴァーは振り回されることになってしまう。彼は、「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という[[古典派経済学]]の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。その一方で、対外的には[[スムート・ホーリー法|スムート=ホーリー法]]のもとで[[保護貿易]]政策をとった。このことは、世界恐慌を深刻にさせた一因とも指摘される。
 
恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、[[第一次世界大戦]]で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「[[フーヴァーモラトリアム]]」である。彼は、この政策を実行すれば、その1年間の間に景気は回復するだろうと考えており、次代の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]が[[ニューディール政策]]で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァーは政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることになってしまう。
 
[[シカゴ]]のギャング・[[アル・カポネ]]の逮捕については、精力的であったものの、一方で、[[ボーナスアーミー]]と呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長[[ダグラス・マッカーサー]]に指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。
 
結局フーヴァーは、世界恐慌に対して有効な政策が取れず、[[赤十字]]頼みとなり、[[1932年アメリカ合衆国大統領選挙|1932年の大統領選挙に挑み、]]で対立候補の[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[フランクリン・ルーズベルト]](第32代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]])に40[[アメリカ合衆国の州|州]]以上で敗北する歴史的大敗を喫した。1933年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。
 
なお、在任期間中の[[1931年]][[3月3日]]にフーヴァーは、『[[アメリカ合衆国の国歌|星条旗]]』をアメリカ合衆国の国歌として正式採用する法案に署名した。第28代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]の下で食糧庁長官、第29代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ウォレン・ハーディング]]と第30代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[カルビン・クーリッジ]]の下で商務長官(1921-1929) 1929年)めたフーヴァーは、主要閣僚でない閣僚を経験して大統領の座についた数少ない大統領である。
 
==== 内閣 ====
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フーヴァーは退任後、[[スタンフォード大学]]に「[[フーヴァー戦争・革命・平和研究所|フーヴァー研究所]]」を創設している。
 
[[1932年アメリカ合衆国大統領選挙|1932年の大統領選挙]]で自身に大勝し、後任として大統領に就任したルーズベルトが行った[[ニューディール政策]]を批判し、[[国家主義]]傾向に対する警告を発した。その懸念を『自由への挑戦 』(''{{lang|en|The Challenge to Liberty}}''を著し、アメリカ従来持ってきた自由主義に敵対する[[ファシズム]]、[[共産主義]]、[[社会主義]]について語っている。
 
[[1938年]]にフーヴァーは[[ヨーロッパ]]各地を訪れ、[[アドルフ・ヒトラー]]を始めとする多くの国家元首と会談した。
 
[[1940年]]にフーヴァーは[[フィラデルフィア]]で行われた共和党大会で講演を行った。[[ドルー・ピアソン]]を含む多数のリポーターはフーヴァーが自身を大統領候補として考えていると報じた。フーヴァーは、ヒトラーのヨーロッパにおける勝利は確実で、アメリカが必要とする大統領はヒトラーと取引ができ、彼を疎外しない大統領であると語った。このことはチャールズ・ピーターズの『フィラデルフィアでの5日間 』(''{{lang|en|Five Days in Philadelphia}}''で詳述される。
 
フーヴァーはアメリカは自国の防衛に当たるべきだとイギリスへの軍事援助、[[レンドリース法|レンド・リース・プログラム]]に強く反対した。[[真珠湾攻撃]]の際は参戦に賛成した{{要出典|date=2011年12月|}}。
 
フーヴァーはチャーチルとルーズベルトがスターリンを連合軍側に引き入れたことは、スターリンが共産主義を広める手助けになったと批判、スターリンはヒットラーと同じろくでなしで、彼ら2人同士を戦わせておけばよかったという意味のことを2011年11月に出版された著書 ''Freedom Betrayed'' で述べている<ref name="nash" />。
 
フーヴァーは後に、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]司令官を解任されたダグラス・マッカーサーが、解任指令の後もアメリカへの帰国を渋った際、「アメリカで支持の声が冷めぬうちに帰国するように」とアドバイスしている。この時、結局マッカーサーは解任指令から5日後に日本を離れているが、マッカーサーはこのとき合衆国大統領になることを目指しており、それでフーヴァーのアドバイスに従ったと思われる。
 
=== 第二次世界大戦後 ===
戦後、第33代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]は、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。
 
[[1946年]]5月に占領下の日本を視察したフーヴァーは、東京で[[連合国軍総司令部]]のマッカーサーと会談した。その際フーヴァーはマッカーサーに対し、第32代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]ルーズベルトを指して、[[太平洋戦争]]は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘した<ref name="sankei20111207" /><ref name="nash" />。開戦前の[[1941年]]7月に行われた在米日本資産の凍結などの経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語った<ref name="sankei20111207">[[佐々木類]] [[産経新聞]] {{cite web |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |title=「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 |accessdate=2012年3月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130415022616/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm |archivedate=2013年4月15日 }}</ref><ref name="nash">{{Cite book
|editor = George H. Nash
|others = The Herbert Hoover Estate, The Herbert Hoover Foundation
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1946年から[[1947年]]にかけての冬にはドイツに派遣された([[ドイツとオーストリアに対する大統領経済使節団|フーヴァー使節団]])。フーヴァーは[[ヘルマン・ゲーリング]]が使用した古い専用列車で西部ドイツ内を視察し、アメリカの占領政策に対して批判的な多くの報告書を作成し、ドイツ経済は「100年間で最低のレベルに沈んだ」{{sfn|Beschloss|2002|p=277}}と語った。[[冷戦]]が激しくなるとフーヴァーは以前強く支持したアメリカ・フレンド奉仕委員会への支援を保留した。
 
1947年に第33代大統領[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]は行政部再編成委員会の委員にフーヴァーを任命し、議長に選出された。この委員会は後に[[フーヴァー委員会]]として知られるようになった。[[1953年]]には第34代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が同様の委員会の議長に任命した。2つの委員会は多くの非効率で不要な物を削減した。
 
=== 死去 ===
フーヴァーは大統領退任から31年7月後の1964年10月20日の午前11時35分に、[[ニューヨーク]]にて90歳で死去した。なお、彼は妻よりも20年長く生きた。その時点で、彼は歴代大統領中で退任後最も長生き<ref>2012年、[[ジミー・カーター]]によってこの記録は更新された。</ref>、(退任後の諸活動により)没するまでに自らのパブリック・イメージを改善することができた。フーヴァーは妻と共に[[アイオワ州]]ウェスト・ブランチのハーバート・フーヴァー大統領図書館に埋葬された。フーヴァーの葬儀は「国葬」として行われ、前年の[[ジョン・F・ケネディ]]、同年の[[ダグラス・マッカーサー]]に続き行われた。
 
== 能力、評価 ==
[[大恐慌]]のときに有効な手を打てなかったので、歴代大統領としての評価は低い。だが、自身が大統領になる前に[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[ウォレン・ハーディング|ハーディング]][[カルビン・クーリッジ|クーリッジ]]の下で閣僚として働き、[[第二次世界大戦]]後は[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]の下で働いた。また[[1962年]]の[[キューバ危機]]では、当時生存していた3人の元大統領の1人として[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領]]の状況説明会に参加している。[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]政権には参加こそしなかったが、ルーズベルトもフーヴァーが大統領になる前、「彼の下なら喜んで働きたい」と発言したほどである。こうして見ると、歴代大統領はそろってフーヴァーを高く評価していたことがわかる。彼は技師、経営者として非常に優秀であった。もし大統領時代に大恐慌に直面していなかったら(あるいは有効な手を打てていたら)、歴代大統領として高い評価を得ていた可能性も皆無ではない。一般的に世界恐慌の時に何もしなった大統領のイメージがあるが、それは間違いで、鉄道公社の救済や失業者に無償で資金を出すなど様々な対策を行っていた
一般的に世界恐慌の時に何もしなった大統領のイメージがあるがそれは間違いで鉄道公社の救済や失業者に無償でお金を出すなど様々な対策を行っていた。
 
第39代大統領[[ジミー・カーター]]の著書によると、フーヴァーは[[フライフィッシング]]を趣味にしていたとのことである。
:「魚釣りをしていると、人間社会の騒々しい鉄槌から逃避できる。私が自由な天地に逍遥することができる、ただ1つの慰みである」
 
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== 外部リンク ==
{{CommonsCommonscat|Herbert Hoover}}
* [http://hoover.archives.gov/ Herbert Hoover Presidential Library]
* [http://www.hooverassociation.org/index.html Hoover Presidential Library Association]
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふうはあ はあはあと}}
[[Category:ハーバート・フーヴァー|*]]
[[Category:アメリカ合衆国の大統領]]
[[Category:アメリカ合衆国商務長官]]