「武田義信」の版間の差分

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[[File:Tokoji-temple Kofu-city.JPG|thumb|幽閉された甲府市の東光寺]]
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄7年([[1564年]])7月に義信の傅役である[[飯富虎昌]]、側近の[[長坂源五郎]](昌国)、[[曽根周防守]]らが信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である[[山県昌景|飯富三郎兵衛]]の密書により露見し、永禄8年([[1565年]])1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。
 
武田義信は同年10月に甲府の東光寺に幽閉され、義元の娘と強制的に離縁の上、後継者としての地位を失い、同年11月13日には異母弟の諏訪勝頼に[[織田信長]]の養女[[龍勝院]]を迎えて誼を通じたという。また、『甲陽軍鑑』では事件の背景を第4次川中島の戦いの顛末や、勝頼が高遠城主となったことに対する不満にあるとしている。
 
義信事件について詳しい経緯は不明であるが、永禄3年の桶狭間の戦いにおける今川義元の戦死、永禄4年の第4次川中島の戦い後の北信地域の安定を契機に、武田氏は対外方針を転換し、義信事件後には今川氏との関係が悪化し永禄11年には今川領国への駿河侵攻が開始されているが、主要な武田氏研究者の間では事件の背景に親今川派の立場にある義信と今川領国への侵攻を志向する信玄の間に派閥抗争が存在していたことを想定する見解で一致している{{Refnest|group="注釈"|義信事件に関する考察には、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)がある。}}。