「燕 (春秋)」の版間の差分

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=== 燕の勃興 ===
[[画像:戦国時代(紀元前350年頃)北方地図.PNG|right|thumb|300px|戦国時代中期の北方]]
[[File画像:ZH-战国七雄地图.jpg|right|thumb|300px|紀元前260年の戦国七雄]]
昭王は、一時とはいえ燕を亡国に追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っていた。しかし当時の斉は[[秦]]と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題であった。昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の[[郭隗]]に聞い尋ねた。郭隗は「死馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答えた。先王が宰相にたぶらかされたことによる苦労の経験があったにも関わらず、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。郭隗の言う通りに、燕には名将[[楽毅]]・[[蘇秦]]の弟[[蘇代]]など、続々と人材が集まってきた。また、時期は不明であるが、昭王は不老不死の[[仙人]]を求めて東方の海上に人を派遣したという。これらの人材を使い、昭王は燕の改革・再建を進めた。
 
この頃、将軍の[[秦開]]を派遣して、北方遊牧民族の[[東胡]]を討った。『[[史記]]』は「東胡は千里しりぞいた」という。また新領土に[[郡県制]]をしき、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の5郡を設置し、『[[魏略]]』によると秦開に[[造陽]]から[[襄平]]までの東西二千里にわたる「燕の長城」を築かせたという。秦開はさらに[[満潘汗]]([[平安北道]]博川)に至って[[古朝鮮|朝鮮]]との境を定めた。『史記』のいう千里は上谷、漁陽など西半分のことで、『魏略』のいう二千里は遼東まで含めたものという説もあるが、『史記』がいうのは東胡が北に去った距離だから南北のことであり、『魏略』のいう東西二千里と矛盾するものではない。ここで一つ注意しなければならないのは、考古学的にはこの5郡の地が燕に編入されたのは、これより約100年ほど前のことであることが判明しており、歴史書が語る年代はあくまで郡県制施行年代や長城建設年代であって、それを領土獲得年代と誤って記述してしまったものと考えられる。