「関銀屏」の版間の差分

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=== その他 ===
民間伝承では名前が「関銀屏(かん ぎんぺい)」となっているが、以下の物語は、古語(文言文)における民間記載には全く存在せず、演義などでもなく現代創作文の可能性がある。
 
 
関銀屏(関三小姐(かんさんしょうしゃ))とも、[[204年]]頃 - [[271年]]頃<ref>文傳記載,此女生得美麗聰慧,十八歲便習得一身文采與武藝。東吳霸主孫權曾派諸葛謹出使,為兒子向關家提出結親,關羽不同意。後因荊州失守,關羽與長子關平敗走麥城,關銀屏懷著為父報仇、為國雪恨的宿願逃到成都,留在劉備身邊。蜀國眾人,皆對這個身懷家破人亡之痛的孤女備感心疼。無不視為己出,將己所長無私傳授予關銀屏。
過了幾年,南方地方勢力作亂,抗拒蜀漢,諸葛亮南征時,啟用了俞元(今江)的建寧太守:李恢,共同南征平叛,同時親自作媒,把關銀屏許配給李恢的兒子李遺為妻。為了鞏固國家安全,關銀屏義無反顧答應了這門親事,並隨李恢父子南征。南疆平定後,便與李遺定居俞元,一同在地方上教化百姓。中国語版ウィキペディアより。</ref>)、字は不明。司州河東郡解県の人。関羽の三番目に生まれた娘。
 
劉備と共に[[荊州]]の[[劉表]]の下に身を寄せていた[[205年]]頃、関羽に色白の可愛い娘が生まれた。[[張飛]]は、この義姪を大変可愛がり'''関銀屏'''と名付けた。
 
関羽は、[[虎牢関]]で[[呂布]]と闘い勝利したとき、呂布が[[紫金冠]]につけていた[[真珠]]をお守りとして大切に所持していたが、これを関銀屏に贈った。魔除けの力があると信じられ、[[劉禅]]、[[張苞]]、[[関興]]ら宝玉や呪(まじな)いの類いに興味の無さそうな男子に贈るには惜しい品だった。(真珠は関羽ではなく張飛が贈ったとも、2人から贈られたとも)。
 
[[219年|建安24年]]、15歳程に成長した関銀屏は一層美しく、色白で賢明な淑女に育ち、多芸に通じ、関羽の娘の評判に縁談が絶えることはなかったという。
 
そんな中、孫権にも関羽の娘の評判は聴こえ、孫権から「貴殿の年頃の愛娘(関銀屏)を、是非、我が長男の[[孫登]](当時11歳程)の嫁に欲しい」という手紙が届いたとき、関羽は「[[ムジナ|狢]]の仔め、高望みが過ぎるわ(虎の娘を犬の仔にはやらん)」と使者を一喝し、面目を潰された孫権から関羽は恨みを買った<ref>「狢の仔」([[狢子]]、かくし)とは江東など南方の住人に対する蔑称の一つ。</ref>。
 
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関羽は劉備と諸葛亮への救援を要請との理由を付けて、関銀屏を荊州から益州に逃した。関羽、[[関平]]、[[周倉]]らは孫権軍の[[馬忠]]、[[呂蒙]]らに捕らえられ[[自刃]]、または首を撥ねられた(『演義』では[[10月14日]])。後に「荊州城は落ちても、(呂布の真珠のおかげで)関銀屏は命拾いをした」と噂された。
 
しかし関銀屏は、父・関羽や義兄・関平の仇をとりたいと、成都でろくに食事を取らず痩せてしまった。張飛に衣装を贈られても、関銀屏は涙を流すばかりで、「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪ぎたいのです」と言った。関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。
張飛に衣装を贈られても、関銀屏は涙を流すばかりで、「綺麗な装飾など今の私には似合いません。父の仇を雪ぎたいのです」と言った。
関銀屏は、[[趙雲]]に武芸を習いたちまち腕を上げて行った。
 
[[225年|建興3年]]、[[雲南]]で叛乱が起きたので、諸葛亮は反乱が頻発する[[南中]]へ自ら軍を率いて[[討伐]]に向かおうとしていた。関銀屏はこの制圧に赴くことになった。
 
関銀屏は本心では、雲南より先に荊州の孫権軍を討ちたかったが、「父母の仇(孫権)は、玄関から泥棒が入ったようなもの。いま雲南の叛乱は、裏庭が火事なっているようなものです。裏庭の火事を消せば、玄関から入った泥棒を捕まえることに、集中できるはずです。諸葛丞相は、それを見通しておられるのです」と、国家の方針に納得した。
 
諸葛亮は南中[[澂江県|兪元]]出身の[[李恢]]を副官に取り立て、その息子である李蔚([[李遺]]のこと)もまた優秀であることを知ると 自ら[[仲人]]となって関銀屏と娶わせ従軍させることにした。人々は箱入り娘が辺境へ遠征することを憂慮し、関銀屏を諌めたが、関羽の後を継いだ関興が縁談を承諾した。
 
関銀屏は李恢父子と南征で手柄を立て、3人はその後も兪元に落ち着き、地元の住民に養蚕、農耕から読み書き算盤、果てには趙雲直伝の武術に至るまで色々助け教えたため、人々は彼女を慕い「'''関三小姐(かんさんしょうしゃ)'''」と呼び親しんだという。
 
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[[1910年]]([[宣統]]2年)の墓碑には「漢忠臣興亭侯子李蔚、寿亭侯女関氏三姐之墓」と刻まれている。
墓碑脇の墓聯には「墓近聖人宮、父女相睽祗數武」、「神游荊襄界、魂魄長恨於千秋」と刻まれている。
江人である李蔚と、その妻、関銀屏のために造られた墓とされている。
 
[[1989年]]8月修復。[[2001年]]4月30日公布、玉渓市文物保護単位。