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劉備が益州の支配に成功すると、その功績により[[蜀郡]][[太守]]<ref>『[[蜀書]]』先主伝の引く『三輔決録注』によると、劉備が劉璋にとって代わった際に射堅([[皇甫嵩]]の娘婿である射援の兄)が[[広漢]]・蜀郡太守に任命されたとある。</ref>・揚武将軍に任じられ、中央の政治に[[諸葛亮]]と共にあたるとともに<ref>諸葛亮と法正は、[[劉巴]]・[[伊籍]]・[[李厳]]と共に『蜀科』を起草している(『蜀書』伊籍伝)。</ref>、劉備の策謀相談役となった(『蜀書』先主伝)。元の蜀郡太守であった[[許靖]]は、劉璋が敗北しそうになると劉備への投降を図ったことから、劉備に疎まれていた。しかし名声の高い人物であったため、法正はその虚名<ref>法正は許靖を虚名のみの人物であると劉備に語った。</ref>を利用するよう勧めた。またこののち、[[孫夫人]]から離縁された劉備に吳氏([[呉懿]]の妹、後の[[穆皇后]])を娶るよう説得している。
 
諸葛亮と法正は性向が異なっていたが(『蜀書』法正伝)、公の立場に立って互いに認め合っていた。また、諸葛亮は常に法正の智術を高く買っていたため、法正の蜀郡太守としての不公正な振る舞いも容認した<ref>法正は蜀郡太守に着任すると、僅かな恨みにも必ず報復し、自分を非難した者数人を勝手に殺害した。このため、ある人が諸葛亮にそれを告げると、諸葛亮は「わが君の今があるのは法正のお蔭である。その功績を考えると処罰することはできない」と咎めなかったという。法正が漢中で軍務に従事した際は、[[楊洪]]が太守を代行している。</ref>。益州の内、かつて張魯が治めていた[[漢中郡|漢中]]は曹操の支配下にあり、[[夏侯淵]]・[[張コウ (曹魏)|張郃]]が駐屯していた。同22年([[217年]])、曹操軍の内情を分析した法正は劉備に漢中侵攻を勧め、自身も軍師として従軍した。劉備の下で適切な進言を行ないつつ<ref>漢中争奪戦の際、形勢不利だったにもかかわらず、劉備が癇癪を起こして退却しようとしない事があった。その際、流れ矢が劉備の周辺に降り注いだが、他の者は恐れて退却を進言できなかった。このため、法正が黙って劉備の前に立ち「孝直、矢を避けよ」と言う劉備に対し「殿自ら矢に身を晒しておられるのですから、私のようなつまらない男なら当たり前の事でしょう」と反論したため、劉備はようやく退却した。</ref>、同24年([[219年]])の[[定軍山の戦い]]でも軍監として策を献じ、[[黄忠]]に命じて夏侯淵を斬らせるなど見事勝利に導いている。法正の献策を聞き知った曹操は「劉備があのような策を考え付くはずがない。誰かに教えられたに違いないと思っていた」と語ったという。また「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみ手に入れられなかったのだろうか」とも述べた<ref>『[[華陽国志]]』に記載。</ref>。
 
その後、劉備が遠征してきた曹操を退け、漢中を制覇し漢中王を称すると、[[尚書令]]・護軍将軍に任じられたが、翌25年(220年)に病死した。劉備は何日間も彼を悼み、'''翼侯'''という[[諡号]]を諡った<ref>劉備から諡号を与えられたのは法正だけである(『蜀書』先主伝)。</ref>。死後、子が後を継いで[[関内侯]]となり、後に奉車都尉・[[漢陽郡|漢陽]]太守に昇進した。