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|residence = <!--「居住国」-->
|nationality = <!--「国籍」-->{{USA}}{{R|日経20141007|四国20141008|官報20141104}}{{Efn|name=nationality}}
|field = <!--「研究分野」-->[[電子工学]]<br />[[半導体工学]]
|alma_mater = <!--「母校」-->[[徳島大学]]
|doctoral_advisor = <!--「博士課程指導教官」-->
|academic_advisors = <!--「他の指導教員」-->多田修(徳島大学){{R|shikoku_tada多田2014}}
|doctoral_students = <!--「博士課程指導学生」-->
|known_for = <!--「主な業績」-->[[発光ダイオード#青色発光ダイオード|高輝度青色発光ダイオード]]の発明、実用。<br>中村裁判・[[404特許]]<br />ERATO中村不均一結晶プロジェクト<br />無極性青紫半導体レーザー
|influences = <!--「影響を受けた人物」-->福井萬壽夫(徳島大学){{Sfn|畠山|2014|p=186}}<br />[[小川信雄 (実業家)|小川信雄]](日亜化学工業){{R|読売20141008}}
|influenced = <!--「影響を与えた人物」-->岡本研正([[香川大学]]){{R|日経20141111}}
|footnotes = <!--(備考)-->
|work_institution = <!--「研究機関」-->[[日亜化学工業]]<br />[[フロリダ大学]]<br />[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]]
|prizes = [[仁科記念賞]](1996年)<br />[[大河内記念賞]](1997年)<br />[[ミレニアム技術賞]](2006年)<br />[[アストゥリアス皇太子賞]]学術・技術研究部門(2008年)<br />[[ハーヴェイ賞]](2009年)<br />第63回[[エミー賞]]技術開発部門(2011年)<br />[[ノーベル物理学賞]](2014年)<br />[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]](2015年)
|religion = <!--「信仰」-->
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[[愛媛県]][[西宇和郡]][[四ツ浜村]]大久(後の[[瀬戸町 (愛媛県)|瀬戸町]]、現在の[[伊方町]])生まれ{{Sfn|西伊予エッセイ|2002}}。小さい頃は海や山といった自然の中で遊ぶ子供であった{{Sfn|西伊予エッセイ|2002}}。父親が四国電力に勤めており、仕事の関係で中村が小学2年生の時に[[大洲市]]へ転居するが{{Sfn|中村|2004a|pp=33-34}}、ここでも山登りを楽しんだ{{Sfn|西伊予エッセイ|2002}}。
 
[[1967年]]に大洲市立喜多小学校を卒業<ref>愛媛新聞、2014年10月9日、6面。</ref>。その後は大洲市立大洲北中学校・[[愛媛県立大洲高等学校]]に進む{{Sfn|西伊予エッセイ|2002}}。数学・物理が好きで{{Sfn|武田先端知|2006|p=2}}、図画工作・美術{{Sfn|中村|2004a|pp=40-42}}とともに得意であった。しかし、歴史や地理などの暗記物は苦手だった{{Sfn|中村|2004a|pp=34-35}}。
 
中学・高校の6年間は、[[バレーボール]]部に入って活動していた{{Sfn|中村|2004a|pp=36-40}}{{Sfn|Science Portal|2006}}。中学はキャプテンをしていた兄に強制的に入部させられ、高校では友人から誘われて断れなかったためであり、バレーが好きなわけではなかった{{Sfn|中村|2004a|pp=36-38}}。しかしインタビューでは「辛い時にはバレーボールのきつい練習を思い出す」と述べており{{Sfn|Science Portal|2006}}、著書では自分達でやり方を研究したり工夫したこと、受験勉強に専念せずに部活動を続けたことの意義や、自立精神が養われたことを振り返っている{{Sfn|中村|2004a|pp=38-40}}。
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大学進学にあたり中村は理論物理や数学を志していたが、教師の就職を考慮した助言と改めて思考し直したのちにより[[工学部]]を選択{{Sfn|畠山|2014|pp=173-174}}。[[徳島大学]]工学部[[電子工学科]]へ進学する。下宿で専門書を読み耽るとともに、[[哲学]]の思索にも時間を割く{{Sfn|武田先端知|2006|p=1}}{{Sfn|畠山|2014|p=182}}。また、3年生の時に後に妻となる教育学部の同級生の女性と出会い、交際を始めている{{Sfn|畠山|2014|pp=189-193}}。
 
3年生では当時助教授であった福井萬壽夫の固体物性の授業に面白さを感じ、中村は材料物性に興味を持つ{{Sfn|畠山|2014|p=186}}。卒業研究では同分野の教授である多田修の研究室に所属し、実験装置の手作りを重視するスタイルを学ぶとともに、[[溶接]]や[[旋盤]]作業も経験する{{Sfn|武田先端知|2006|p=2}}{{R|shikoku_tada多田2014}}{{Sfn|畠山|2014|pp=186-188}}。
 
中村はトップクラスの成績{{R|shikoku_tada多田2014}}で学部を卒業後、同大学大学院工学研究科修士課程に進学{{Sfn|畠山|2014|pp=194-195}}。なお、大学院進学にあたっては大学院に博士課程のある京都大学も受験していたが、1点差で不合格になってしまっていた{{Sfn|畠山|2014|pp=194-195}}。大学院1年生の時に結婚し、修了時には子供もいた{{Sfn|武田先端知|2006|p=2}}{{Sfn|畠山|2014|pp=193-206}}。
 
大学院修了を控えて[[松下電器産業]]の採用試験を受ける。成績は学部・修士とトップで徳大大学院の推薦枠もあり、面接もきちんと受け答えできたが、不採用となる。これについて、指導教授の多田からは卒業研究の論述で理論的なことを書きすぎたためと指摘され、中村自身は材料以外はやりたくないと答えたことも一因と分析している{{Sfn|畠山|2014|pp=202-203}}。その後、中村は[[京セラ]]を受験。この時の面接官は創業者の[[稲盛和夫]]で、中村は合格した{{Sfn|中村|2002c|pp=125-126}}。しかし、家族の養育の関係から、地元就職を希望。指導教授の多田の斡旋により[[日亜化学工業]]を受ける{{Sfn|武田先端知|2006|p=6}}{{Sfn|中村|2004a|pp=53-54}}{{Sfn|畠山|2014|pp=204-206|}}。採用時期を過ぎていて断られかけたものの、英語の成績が良かったことが幸いして採用された{{R|shikoku_tada多田2014}}。
 
=== エンジニア時代 ===
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日亜化学工業時代に商品化したものとしては、ガリウム系半導体ウェハーなどがあったが、ブランド力や知名度が低く売れなかった。その頃、[[名古屋大学]]の赤崎勇教授のグループが青色発光ダイオードの実現に絶対不可欠な高純度の窒化ガリウム(GAN)の結晶膜に、世界で初めて実現したという公開された論文を手に入れ、検証実験を繰り返し、基盤となる青色発光ダイオードの原理を学習した結果、まだ実用化できていないものに取り組もうということで、青色発光ダイオードおよび青色半導体レーザーに挑戦することを決意する。青色発光ダイオードの開発を社長の[[小川信雄 (実業家)|小川信雄]]に直訴し、中小企業としては破格の約3億円の開発費用の使用を許される{{Sfn|武田先端知|2006|p=5}}。
 
中村はまた社長に留学を直談判し{{R|nhk_jiji時論公論}}、1988年4月から1年間の予定で、[[アメリカ合衆国]]の[[フロリダ大学]]へ留学する。[[有機金属気相成長法|MOCVD]] を勉強するための中村の希望であったが、日亜化学としては元々、[[徳島大学]][[助教授]]酒井士郎の勧めで、フロリダ大学へ誰か社員を派遣する計画であった{{Sfn|テーミス編集部|2004|pp=80-81}}{{Sfn|日経サイエンス|2014|p=21}}。中村は修士修了で博士号を持っていなかったため、留学先で研究者として見てもらえず悔しい思いをしており、「コンチクショー」と博士号取得や論文執筆への意欲を新たにした{{Sfn|中村|2004a|pp=122-127}}。
 
1年間の留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かる。なお、2014年に中村修二への[[ノーベル物理学賞]]授与が発表されたとき、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている{{R|読売20141008}}。
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[[1994年]]3月、中村は[[徳島大学]][[大学院]][[工学研究科]]に[[博士論文]]を提出して、[[博士(工学)]]の学位を取得した{{Sfn|中村|1994}}。中村本人は[[東北大学]]での取得を希望しており、実際そのチャンスもあったが、会社の都合で地元の徳島大学になったという{{Sfn|小山|2003}}。
 
[[青色発光ダイオード]]が製品化されて以降、1994年頃から中村は国内外の学会などで多くの講演をこなすことになる{{Sfn|テーミス編集部|2004|ppp=50-53}}。しかし[[日亜化学工業]]で給料以外に発明に対して得た報奨金を聞いたアメリカの研究者仲間からは低すぎる対価に甘んじているとして「スレイブ・ナカムラ」(スレイヴ=奴隷)とあだ名された{{R|ne2001|wsj20141007|js20141021|石川20141008}}。
 
また、[[1998年]]11月に[[東京大学]][[客員教授]]の誘いが来る。相談を受けた日亜化学[[常務]]の小山稔は引き受けることを勧めたが、中村は日亜化学から重要な技術情報が漏れることを恐れ、断る方針を伝えた{{Sfn|小山|2003|p=229-230}}。小山は中村の日亜化学に対する忠社精神を指摘するとともに、すでに重要な技術は研究の段階から生産現場へ移っていたことから、中村が現場における「“真の進歩”に気が付いていないのではないか」と思ったと回想している{{Sfn|小山|2003|ppp=209-232}}。
 
中村は管理職として研究の現場から離れつつあり{{Sfn|中村|2004a|ppp=204-209}}、LED関係の開発に目途が立ち、研究テーマの観点からも日亜でやることがなくなりつつあった{{Sfn|仲森|2000|}}。中村はアメリカの企業や大学から多くのオファーを受け、「スレイブ・ナカムラでは耐えられない」という思いもあり、娘からの「もったいない」という言葉がきっかけで転身を決意{{Sfn|中村|2004a|ppp=216-218}}。
 
[[1999年]]12月27日に日亜化学を退社。[[2000年]]2月に、半導体関係に強くスティーブン・デンバース教授が誘ってくれた{{Sfn|中村|2004a|ppp=216-217}}、[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]] (UCSB) ・材料物性工学科{{R|erato_report|nikkei_science}}[[教授]]に就任する{{Sfn|武田先端知|2006|p=13}}{{Sfn|仲森|2000}}。
 
=== 日亜化学工業との訴訟 ===
[[2000年]]12月にアメリカ・ノースカロライナ州東部地区連邦地方裁判所において、[[日亜化学工業]]は[[トレードシークレット]](営業秘密)漏洩<!--とコンピューター詐欺-->の疑いで中村を提訴した{{Sfn|テーミス編集部|2004|ppp=31-32}}{{Sfn|中村|2004b|ppp=185-187}}。裁判終結までの間、中村は米国訴訟におけるディスカバリー制度の対応のため、情報提供や反論の準備にかなりの時間を取られ、研究に支障が生じた{{R|日経BPnet2002}}。
 
その後[[2001年]]8月23日に、中村が日亜化学工業を提訴{{R|2001-wa-17772|日経BPnet2001}}。中村は、日亜化学工業に対してツーフローMOCVD(通称[[404特許]]と呼ばれる)の特許権譲渡および特許の対価の増額を求めて争った(通称「中村裁判」(青色LED訴訟)、詳細は[[404特許]]を参照){{Sfn|武田先端知|2006|p=13-14}}{{R|jcast20141008}}。中村は、「サンタバーバラの自宅や大学の研究室を調べられ、心身ともに疲弊した。裁判を通して続けられる日亜化学の執拗な攻撃をやめさせるために、日本で裁判を起こした」と言う{{R|日経BPnet2002}}。
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=== 米国籍取得とノーベル物理学賞受賞 ===
[[ファイル:Professor Shuji Nakamura (Cropped).jpg|thumb|right|[[2014年]][[10月30日]]、[[UCSB]]にて]]
中村は以前から「ノーベル賞に最も近い男」と言われることもあったが、青色発光ダイオードの開発から20年経っても受賞できず、[[2013年]]末には「来年取れなかったら当分無理かもしれない」と恩師の多田にこぼしていた{{R|shikoku_tada多田2014}}。しかし[[2014年]]に[[赤崎勇]]・[[天野浩]]と共に[[ノーベル物理学賞]]を受賞することが決定する{{Efn|name="nobel2014"}}{{R|時事20141007|日経20141111}}。
 
なお、アメリカで研究を続ける都合により、中村は2005 - 2006年頃に米市民権を取得していた{{R|日経20141007}}<ref>[https://withnews.jp/article/f0141018000qq000000000000000G0010401qq000010997A ノーベル賞の中村修二氏、「アメリカの市民権」を取った理由を語る]”. ''withnews''(2014年10月13日). [[朝日新聞社]]. 2018年1月3日閲覧。</ref>。ノーベル賞受賞者発表時には一般に知られておらず、またプレスリリースにある「American Citizen」の解釈でインターネット上の議論を巻き起こした{{R|弁護士20141007}}。ちなみに受賞後のインタビューにおいて、本人は米国籍を取得したが日本国籍を捨てたわけではないと答えている{{R|四国20141008}}が、[[国籍法 (日本)|日本の国籍法]]は自ら他国の国籍を保持した際の二重国籍を認めていないため、本人の意思とは関係なく米国籍の取得時点で日本国籍を自動的に喪失していると考えられる{{R|usembjapan}}(「[[帰化#単独日本国籍保持者の他国への帰化]]」も参照)。
 
平成26年11月4日官報では、「アメリカ合衆国人 中村修二 文化勲章を贈与する」とされており、日本人として「文化勲章を授ける」とされた他の6人の文化勲章受章者とは明確に異なる取り扱いがなされている。
 
中村は前述のようにノル賞受賞時に米国籍取得を話したところ、二重国籍が問題となり日本のパスポート更新ができなくなり取り上げられたという<ref>小寺貴之 (2017年11月23日).“[https://newswitch.jp/p/11126 ノーベル物理学賞受賞の中村氏「日本は研究者から選ばれない。上意下達が過ぎる」]”. ''ニュースイッチ''. [[日刊工業新聞社]]. 2018年1月3日閲覧。(『日刊工業新聞』2017年11月22日号の記事に加筆されたもの)</ref>。
 
== 履歴 ==
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* [[1998年]] - Innovation in Real Materials 賞、C&C 賞、 Jack A. Morton 賞(IEEE)、Rank 賞
* [[1999年]] - Julius-Springer Prize for Applied Physics
* [[2000年]] - 高柳賞、本田賞<ref>“[http://www.hondafoundation.jp/winner/view/398 受賞者一覧 中村修二博士]”. [[本田財団]]. 2018年1月3日閲覧。</ref>、Carl Zeiss Research 賞、 Crystal Growth and Crystal Technology 賞
* [[2001年]] - 朝日賞{{R|朝日賞}}、Nick Holonyak, Jr.賞(OSA)、 Distinguished Lecturer 賞(LEOS)
*[[2002年]] - [[ベンジャミン・フランクリン・メダル]]工学賞、Quantum Electronics 賞(IEEE/LEOS)、The Economist Innovation Award 2002 “No Boundaries”、World Technology 賞、[[武田賞]]{{Efn|受賞理由:青色発光半導体デバイスの開発、共同受賞者:[[赤崎勇]]・[[天野浩]]。}}
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<ref name="官報20141104">平成26年11月4日付け『官報』(号外第243号)28頁</ref>
<ref name="日経20141007">“[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDC07011_X01C14A0I00000/?dg=1 中村教授「物理学賞での受賞には驚いた」 ノーベル賞]”. ''日本経済新聞''. (2014年10月7日) 2014年10月8日閲覧。</ref>
<ref name=shikoku_tada"多田2014">「いたずら好きでやんちゃ-徳島大の恩師「感激」」、『四国新聞』、2014年10月8日、23頁。</ref>
<ref name=nhk_jiji"時論公論">{{Cite episode
|series = NHK 時論公論
|title = ノーベル物理学賞 日本独占の快挙