「細川ガラシャ」の版間の差分

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=== キリシタンへ ===
天正12年([[1584年]])3月、信長の死後に覇権を握った[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した{{Refnest|group="注釈"|忠興は家臣2名に珠を昼も夜も見張らせた。珠は近親者以外からの伝言は受け取れず、近親者からのものであっても2人の検閲を受ける必要があった。また、家を訪問してきた者と外出した女性を全て記録して書面で提出させ、外出した女性については誰が許可したのか、どこへ行ったのかまで記録させた。珠も含めた屋敷内の女性は各自が許可された部屋にしか行くことができず、領域を接していない人間と会話することはできなかった<ref>『完訳フロイス日本史3』第62章</ref>。}}。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が[[高山右近]]から聞いた[[カトリック教会|カトリック]]の話をすると、その教えに心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機についてははっきりとしたことは分からない<ref>{{Sfn|村井益男「キリシタンの女たち」(笠原一男編 『日本女性史3 彼岸に生きる中世の女』 評論社、|1976年)</ref>}}
 
天正14年([[1586年]])、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年([[1587年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[3月19日]])、夫の忠興が九州へ出陣すると([[九州征伐]])、彼女は[[彼岸]]の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき[[復活祭]]の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で[[洗礼]]を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので{{Refnest|group="注釈"|その場にいたグレゴリオ・セスペデス司祭は、彼女が秀吉の側室ではないかと疑った<ref>ヘルマン・ホイヴェルス著「細川ガラシャ婦人」所収、アントニオ・プレネスティノの書簡</ref>。}}、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、[[駕籠]]で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
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それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
 
バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしたが珠は頑としてきかずついに忠興も黙認することになった<ref>{{Sfn|村井益男「キリシタンの女たち」(笠原一男編 『日本女性史3 彼岸に生きる中世の女』 評論社、|1976年)</ref>}}
 
=== 壮絶な最期 ===
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なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で[[前田利家]]の娘・[[春香院|千世]]もいたが、千世は姉・[[豪姫]]の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を[[勘当]]・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が[[大坂の陣]]で豊臣側に与する原因となった。
 
この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集めることを、むやみに拡大することはなかった<ref>[[{{Sfn|端泰子]]『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』(ミネルヴァ書房、畑|2010年)206|p=206-207頁</ref>}}
 
==== 異説 ====
一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし[[太田牛一]]の『[[太田和泉守記|関ヶ原御合戦双紙]]』蓬左文庫本では、彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある<ref name="Kaneko">{{Citation|和書|author=金子拓|year=2011|title=記憶の歴史学 史料に見る戦国』(|publisher=講談社、2011年)|chapter=第三章参照}}</ref>。
 
『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える<ref name="Kaneko"/>。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、『[[慶長見聞集]]』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである<ref name="Kaneko"/>。
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戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きである。この戯曲は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。
 
== 伝記 ==
*上総英郎編 『細川ガラシャのすべて』([[新人物往来社]]、1994年)
*[[田端泰子]] 『細川ガラシャ 散りぬべき時知りてこそ』(〈ミネルヴァ日本評伝選〉[[ミネルヴァ書房]]、2010年)
 
==参考論文 ==
* 村井益男「キリシタンの女たち」([[笠原一男]]編 『日本女性史3 彼岸に生きる中世の女』 評論社、1976年)
*[[宮本義己]]「史料紹介&ドキュメント「霜女覚書」が語るガラシァの最後」(『歴史読本』45巻12号、2000年)
 
== ガラシャを主題とした作品 ==
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{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考書籍 ==
* {{Citation|和書|year=1994|title=細川ガラシャのすべて|editor=上総英郎|publisher=新人物往来社}}
*[[ {{Citation|和書|author=田端泰子]] 『|authorlink=田端泰子|year=2010|title=細川ガラシャ 散りぬべき時知りてこそ』(〈|series=ミネルヴァ日本評伝選|publisher=[[ミネルヴァ書房]]、2010年)}}
 
== 参考論文 ==
* {{Citation|和書|author=村井益男|chapter=キリシタンの女たち|year=1976|title=彼岸に生きる中世の女|series=日本女性史3|editor=[[笠原一男]]|publisher=評論社}}
*[[ {{Cite journal|和書|author=宮本義己]]「|authorlink=宮本義己|title=史料紹介&ドキュメント「霜女覚書」が語るガラシァの最後」(『|year=2000|journal=歴史読本|volume=45巻|issue=12号、2000年)}}
 
== 関連項目 ==
{{commonscat|Hosokawa Gracia}}
* [[出水神社 (熊本市)]] - ガラシャが祭神として祀られている。
* [[大阪カテドラル聖マリア大聖堂]]
* [[越中井]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www4.ocn.ne.jp/~garasha/index.html 長岡京ガラシャ祭]
* [http://www.shinshindoh.com/gracia.htm 肥後細川藩拾遺-ガラシャ]
 
{{日本キリスト教史}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:ほそかわ からしや}}
[[Category:明智氏]]
[[Category:奥州細川氏|からしや]]