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{{基礎情報 皇族・貴族
[[Image:Margit of Prussia.jpg|right|thumb|200px|ドイツ皇女マルガレーテ]]
| 人名 = マルガレーテ・フォン・プロイセン
| 各国語表記 = Margarethe von Preußen
| 家名・爵位 = フィンランド王妃
| 画像 = Margit of Prussia.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1872|4|22|no}}
| 生地 =
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1872|4|22|1954|1|22}}
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン]](フィンランド王カールレ)
| 子女 = フリードリヒ・ヴィルヘルム<br>マクシミリアン・フリードリヒ<br>[[フィリップ・フォン・ヘッセン|フィリップ]]<br>[[ヴォルフガング・フォン・ヘッセン|ヴォルフガング・モーリッツ]]<br>リヒャルト・ヴィルヘルム<br>[[クリストフ・フォン・ヘッセン|クリストフ・エルンスト]]
| 父親 = [[ドイツ皇帝]][[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]
| 母親 = [[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ]]
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''マルガレーテ・ベアトリーツェ・フェオドラ・フォン・プロイセン''' ({{lang-de|'''Margarethe Beatrice Feodora von Preußen'''}}, [[1872年]][[4月22日]] - [[1954年]][[1月22日]])は、[[フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン]]の妃。
 
== 生涯 ==
のちの[[ドイツ皇帝]][[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]とその皇后[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]の末娘(第8子)として生まれた。家族内ではモッシー({{lang|de|Mossy}})と呼ばれ、姉[[ヴィクトリア・フォン・プロイセン (1866-1929)|ヴィクトリア]]、[[ソフィア (ギリシャ王妃)|ゾフィア]]らと同様、母ヴィクトリアから[[イギリス]]式に身近で愛情を受けて育った。
 
1893年1月25日、マルガレーテはヘッセン公子フリードリヒ・カールと結婚。彼の母親[[マリア・アンナ・フォン・プロイセン|マリア・アンナ]]はプロイセン王女であるため、2人は親戚同士であった。2人の結婚は非常に幸福なものであったといい、二組の双子を含む6人の子供たちに恵まれた。
* フリードリヒ・ヴィルヘルム(1893年-1916年) - [[第一次世界大戦]]中、従軍していた[[ルーマニア]]で戦死
* マクシミリアン・フリードリヒ(1894年-1914年) - 第一次世界大戦中、従軍していた[[フランス]]で戦死
* [[フィリップ・フォン・ヘッセン|フィリップ]](1896年-1980年) - [[イタリア王国|イタリア]]王女[[マファルダ・ディ・サヴォイア|マファルダ]]([[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]の娘)と結婚
* [[ヴォルフガング・フォン・ヘッセン|ヴォルフガング・モーリッツ]](1896年-1989年)
* リヒャルト・ヴィルヘルム(1901年-1969年)
* [[クリストフ・フォン・ヘッセン|クリストフ・エルンスト]](1901年-1943年) - [[ギリシャ]]・[[デンマーク]]王女[[ソフィア・ティス・エラザス|ソフィア]]([[エリザベス2世]][[王配]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]の実姉)と結婚
 
次男マクシミリアンは、戦場で落命した後、彼がドイツ皇帝の甥であることを知った近郊の村民らに秘密裡に葬られた。司祭は、[[ベルギー]]が解放され賠償金が支払われるまでは、彼の墓の確認を拒み続けた。四男ヴォルフガングは、イギリス当局に支援を訴え、直ちに調査がされマクシミリアンの遺体は家族の元へ帰された。